hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

独裁の規範を こえて。

 規範は ふたつに分類できると おもいます。ひとつは、できあいの規範。もうひとつは、つくられつつある規範。


 いいかえると、独裁の規範と、民主主義的な規範。


 独裁の規範は、日常的ファシズムによって、社会の すみずみまで いきとどいています。そして、そのイデオロギーを ささえる御用学者が 存在します。独裁は、いつも偽装工作をします。独裁の規範は、もっともらしく ふるまいつつも、詳細な研究によって かんたんに くつがえされる しろものです。
 独裁の規範は、完成されたものだと おもわれています。


 それにたいして 民主主義的な規範は、ゆれうごき、ぶつかりあいながらも、ひびきあうものです。ひとの数だけ規範があるという視点に たち、それぞれの関係性のなかで おりあいをつけたり つけなかったりしながら、かたちを かえていくのが民主主義的な規範です。民主主義的な規範は、完成形ではなく、つくられつつあるものです。
 やっかいなのは、独裁の規範にさえも、もっともらしさ、うなづけるところが ふくまれているということです。だから、独裁の規範を 完全に 排除しようとすると、ひとは いきどまりに ぶつかり、途方に くれてしまいます。


 だから、独裁の規範と 民主主義の規範を うまいこと 調合しつつ、そのとき 自分が これでよしと おもえるものを えらびとっていけば いいのだと おもいます。


 規範を 批判するのは、自分で 自分を せめたてるためではないはずです。たいせつなのは、みずからを 解放することによって、いきづまった関係性に 突破口を みいだし、関係性を あらたに むすびなおしていくことです。まず最初に すくいあげるべきは、自分自身であるべきです。
 自分を すくってあげることなしに 関係性を かえていけるはずは ありません。自分を すくわないでおいて 関係の ありかただけを かえていくなんて、そんなの、せつない精神論だと おもうのです。精神論は、独裁者が 支配の道具にしてきたものです。


 まず、解放されよう。自分を ときはなとう。そして。そして。そして!

  • 参考になる論文:山田富秋(やまだ・とみあき)「エスノメソドロジーから見た「言語問題」」ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別』三元社、23-42ページ。とくに「3. 社会的に構築されるものとしての「規範」」が おすすめ。