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緒方正人(おがた・まさと)『チッソは私であった』

  • 緒方正人(おがた・まさと)『チッソは私であった』葦書房(あし しょぼう)

 ひとことで いえば、おそろしい本です。すばらしすぎるという表現が ゆるされるならば、最大限の ほめことばとして、さしだしたい おもいが します。


 言葉にすればたったの三文字の水俣病(みなまたびょう)に、人は恐れおののき、逃げ隠れし、狂わされて引き裂かれ、底知れぬ深い人間苦を味わうことになった。そこには、加害者と被害者のみならず、「人間とその社会総体の本質があますところなく暴露された」と考えている。つまり「人間とは何か」という存在の根本、その意味を問いとして突きつけてきたのである。
 私自身、その問いに打ちのめされて85年に狂ったのである。それは、「責任主体としての人間が、チッソにも政治、行政、社会のどこにもない」ということであった。そこにあったのは、システムとしてのチッソ、政治行政、社会にすぎなかった。
 それは更に転じて、「私という存在の理由、絶対的根拠のなさ」を暴露したのである。立場を入れ替えてみれば、私もまた欲望の価値構造の中で同じことをしたのではないか、というかつてない逆転の戦慄(せんりつ)に、私は奈落の底に突き落とされるような衝撃を覚え狂った。
 一体この自分とは何者か。どこから来てどこへゆくのか、である。それまでの、加害者たちの責任を問う水俣病から自らの「人間の責任」が問われる水俣病へのどんでん返しが起きた。そのとき初めて、「私もまたもう一人のチッソであった」ことを自らに認めたのである。それは同時に、水俣病の怨念(おんねん)から解き放たれた瞬間でもあった。
(8ページ)


 ほんきで かんがえ、かんがえつめて、達した こたえが「私もまたもう一人のチッソであった」ということ。どれほど くるしいことでしょうか。そして、かなしくなるくらいに、「システムとしてのチッソ」というものが、現実的な ひびきを もっていることを、わたしは 痛感します。ほんとうに、そのとおりだと おもいます。
 「人間の責任」を ひきうけるということ。それは、社会の ありかたに 責任を もつということでしょう。だれもが、社会を かたちづくる 主体として 存在するのですから。かぎりあるものを、わけあって いきているのですから。

 うえの本を よんで、『チッソは私であった』に、とても たいせつなことが かいてあるのを しりました。『チッソは私であった』から引用します。


 三つ重要なことがあると思います。一つは、水俣病事件が始まった昭和30年代当初、「奇病」とか「伝染病」とかいろいろいわれながらも、魚を食べつづけてきた。まあ一番ひどいときには漁師の家でも一ヶ月ばかり魚を食べなかったり、三ヶ月、半年と食べる量を少なくしたことはありましたけれども、やはりこの40数十年来、毎日魚を食うことをやめなかった。…中略…二つめに、母親のお腹の中で水俣病になった胎児性の子どもが生まれても、その子に向き合うと同時に、その後も二番目、三番目、あるいは四番目、五番目と子どもを産み育てつづけてきた。そして三つ目は、被害者たちの方はどれほど殺されたかわからない、何人殺されたのかさえわからないのに、こちらからは一人も殺してはいないという事実。この三つのことが、私はとても重要なことだと思います。
(60ページ)


 緒方さんは、「チッソを恨んでも、魚や海を恨むことはなかった」「命を選ばなかった」「命に関わる一番大事なところでは、いつも殺されても殺さなかった」と おっしゃっています(60-62ページ)。


 なんと いえば いいのでしょうか。わたしたちには、最後のところでは、いのち しかないのです。いのち。そして、いのちを うみだし、はぐくむ この社会、環境というものを、はなれることは できないのです。いのちと むきあい、そして 環境に むきあう。いのちと つきあい、環境と つきあう。


 すべて ぬぎすてたところに、なにが のこるでしょうか。それはやはり、いのちではないですか。そして、いのちであるからには、「いきを するもの」としての、ぬくもりが あります。


 わたしは 最近 おもうのですよ。すべての ひとに ぬくもりが あるのであれば、「わるい ひと」など、ほんとうは どこにも いないのでは ないかと。「ほんとうに わるい ひと」。そんな ひとが どこにも いないと いえるほど、わたしも やさしくなれません。信じることは できません。けれども、ひととしての ぬくもり、いえ、「いきを するものとしての ぬくもり」を 信じるほかに、わたしたちに、なにが のこされているのでしょうか。


 ねがうように、いのるように ぬくもりを 信じること。わたしには できないかもしれません。いえ、たぶん、できないでしょう。けれども、ほんのすこしであっても、ねがっていたいと おもうのです。


 だって、ほんとうは、だれも つきはなしたくは ないのです。むきあっていたいのです。


 『チッソは私であった』など、だれにでも いえることでは ありません。けれども、その こころざしに、たちすくみながらも、むきあえるように なりたいです。


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