hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

できるだけ たくさんのひとが社会的排除を 批判する。

 ひとりずもうを します。


 たいせつなのは、みんなが社会的排除を 批判することだと おもう。


 さまざまな社会問題がある。それを 問題化するときに、構図を みたてる。被害者と加害者というように。けれども、そういう構図は現実そのものであるとは かぎらない。現実は、ふくざつ。境界線は、ひけない。連続している。つながっている。


 なにか問題提起するときに、構図が必要になることがある。その構図では不十分だったり、不適切だったりするという問題提起もできる。それも必要な視点。



 女性差別を 問題化しよう。でも、「女性」って なあに?という視点も わすれずにいたい。それを 両方 みすえることが たいせつ。


 日本社会や日本政府を 批判すると、「日本人ではないはず」と みなされることが よくある。たとえば わたしの議論を みて、「在日朝鮮人なのだろう」とか、「韓国籍なんだろう」と かんがえる ひとが いる。うんざりするほど。


 日本社会を 批判すれば「日本人ではない」と みなされるのなら、「日本人ではない」と きめつけられることは、名誉なことだろう。けれども、それは「やった、非国民あつかいされた!」といって よろこんでばかりも いられない。たとえ、みずから非国民を 自称していてもだ。なぜなら、日本社会を 批判すれば「日本人ではない」と みなされるという現実そのものが、日本の おそまつな社会風潮を あらわしているからだ。

  • ひとつ。「「日本人」は「日本」が だいすき」という固定観念。「だいすきであるべき」という おしつけ。これが ほんとうに くだらない。
  • ふたつ。「日本を 批判するのは「外国人」ばかり」という固定観念


 この ふたつが せなかあわせにある。


 日本の国家権力を 批判すると「日本人ではないはず」と想定されやすい。それは名誉なことでもあるだろう。だが、よろこべないのだ。なぜなら、日本社会を 内側から よりよくしようとする ひとが すくなすぎるということだから。


 「内側から」? 日本で生活していれば、内側に いるのは、みんなが そうだろう。だれもが、内側に いる。そして、内側から、この社会について、さまざまな視点から評価をあたえている。うちと そとは、排除の論理によって うみだされるものだ。じっさいに排除する社会制度によって現実にされるものだ。その一例が、戸籍制度と外国人登録制度。


 戸籍制度と外国人登録制度は、現実のものだ。


 だから、「日本社会を 内側から よりよくしようとする ひとが すくなすぎる」という一文は、「日本社会を、戸籍制度の 内側から よりよくしようとする ひとが すくなすぎる」と いいかえる必要があるだろう。


 さらに、戸籍制度の内部にも、排除の論理がある。だが、「戸籍による統合」によって、排除のありかたは、みえずらい状態になった。だが、「オンナか、オトコか」の二元論では わりきれない ひと、「婚外子」は、いまなお はっきりと差別されている。


 多数派/マジョリティという表現は、便利だ。へたに「内側」などといってしまうと、排除の論理を 再生産してしまう。それよりも、多数派という表現をしたほうが いい。


 一方で、「多数派とは、だれのこと?」という問いかけは くりかえされる。構図を みたてることによって「みいだす」のが「多数派」なのだから、どのような視点に たつのかによって、「多数派」は うごく。視点や定義しだい。だが、わすれてはいけないのは、何度も いうように、「マイノリティは、ただマイノリティなのではない。 マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ」ということ。


 だから、「だれもがマイノリティ」というのは、正確ではない。「だれもが、なんらかの点において だれかに しいたげられている」と いいかえなくてはいけない。そして、「いやだ」と反発すること、それを 社会を よりよくするための原動力とすること。そして、ほかのひとたちの「いやだ」という主張と ひびきあうこと。たいせつなのは、そういうことだろう。



 「わたしの社会的属性」が どうであれ、たいせつなのは、どの方向を むくのかということ。そのひとが どのような立場、属性であれ、「社会運動に資格は いらない」。できること、すべきことを するだけだ。「みんな」は無理だとしても、できるだけ たくさんのひとが社会的排除を 批判する。それが だいじなのだ。


 ただ、わすれてはいけないのは、もし自分が だれかの不自由を ぎせいにしつつ、自分が自由に ふるまっているなら。そのことに気づかずにいるなら。だれかの「いやだ」という主張にも、気づかずにいるということだ。そして、無関心によって、だれかを さらに孤立させてしまっているということだ。



 気が つかないということ。それは よくないことだ。そして、同時に、だれかの不自由の すべてに気づくことは、なかなかできることではない。むずかしい。


 それを ふまえたうえで、できることを していくしかない。いきどまりに ぶつかって、うごけなくなってしまうのも、やっぱり よくない。


 だれもが 内側に いる。けれども 排除がある。権利の制限がある。



 「うちと そと」の論理を のりこえ、平等な関係を つくっていこう。理想を あきらめない。現実を わすれない。



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