hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

部首って、なあに。

 わたしは「正しい」という ことばに 敏感なのです。社会言語学の名著に『「正しさ」への問い―批判的社会言語学の試み』三元社というものが ありますが、まさに! それが社会言語学の使命だよ!と おもってしまいます。

 ほかにも、たとえば安田敏朗(やすだ・としあき)さんの『辞書の政治学―ことばの規範とはなにか』平凡社とか、ジェームズ・ミルロイ/レズリー・ミルロイ『ことばの権力―規範主義と標準語についての研究』南雲堂なども、だいすきな本です。


 うえのような社会言語学的研究は、漢字についても適用することが できます。たとえば、野村雅昭(のむら・まさあき)さんの『漢字の未来 新版』三元社などを よむと、いかに漢字の「正しさ」が ゆれているか、それが あやふやなものかを うかがいしることが できます。


 ここでは、部首についての議論を、かんたんに みてみたいと おもいます。ご紹介するのは、円満字二郎(えんまんじ・じろう)さんの『大人のための漢字力養成講座―恥をかかずにすむヒント』ベスト新書です。


 いかにも、いやな題の本ですので、わたしの趣味には あいません。けれども、そのような本に、漢字に まつわる 幻想を ひっくりかえすことが かいてあったりするのです。わたしは、保守的な本を、いかに革命的に利用するかということに 興味が あります。まあ、ちょっと おおげさですけど。部首について。


 現在の部首分類のもとになっているのは、中国で18世紀の初めに作られた『康煕字典(こうきじてん)』という字書なのですが、この字書には、部首分類の混乱がしばしば見受けられます。
(156ページ)


 そうそう。部首というのは、『分類という思想』(池田清彦(いけだ・きよひこ))の問題なのですよね。池田さんが いうには、「すべての分類は本来的に恣意的なものである」ということです(214ページ)。部首も、恣意的(しいてき)、つまりは いいかげんに きめられているということです。


ほんとですか?


 『大人のための漢字力養成講座』を みてみましょう。


ヒント74 「部首は一つにあらず」の法則
同じ漢字でも、漢和辞典によって、部首が異なることがある。


 『康煕字典』の部首は、過去200年以上にわたって通用してきたのですから、それを守ろうとするのも一理あります。また、漢字の中には理論で考えても部首が定まりにくいものもあって、理論的な立場に立ったとしても、部首はなかなか統一できないのです。
 これは、たいへん困った問題です。とはいえ、とりあえずは、現実にこのような状況が存在することを心に留めておくことぐらいしか、できることはなさそうです。

(157ページ)


 え…。それは そうでしょうねとも感じますが、それ、けっこう だいじなことじゃないですか。「現実にこのような状況が存在すること」は、ちゃんと漢字関係者(?)に つたわっているのでしょうか。心配です!
 つぎのフレーズは、ちょっと 逆ギレのように みえてしまいます。おもしろいですよ。


ヒント75 「こじつけ部首」の法則
意味の上から決められない場合、部首は形の上からかなり強引に決められる。


 部首という漢字の分類方法は、意味分類として出発したのですが、全ての漢字をこの方法で分類するためには、ときにはちょっと強引なやり方も必要なのです。

(159ページ)


 「必要なのです」。はい。「必要なのです」。しょーがねーじゃねーか、という声が きこえてきそうですね。そんなもんさねーって かんじですか。


 さて、時間が さいごに おもしろい記事と 本を ご紹介しましょう。

 なんと。言語学の精神と障害学の精神が 手を むすぼうとしています。感動した! 1年まえの わたしは、こんなことを かんがえていたのですね。ブログって すばらしい!

  • ロンダ・シービンガー『女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?』工作舎

 フェミニズム科学論の名著ですね。カモノハシについての議論が おもしろいです。この本については、マークスの『98%チンパンジー―分子人類学から見た現代遺伝学』から引用しつつ、紹介してあります(リンネの分類学へ - hituziのブログ 無料体験コース)。


 カモノハシについては、はてなブックマーク - asahi.com: 爬虫類+鳥類+哺乳類=カモノハシ? - サイエンスを みると、おもしろいです。いかに「分類というもの」が絶対的、本質的なものとして うけとめられているのかが かいまみえてきます。

 ねえねえ。なんで漢字の部首から カモノハシに はなしが とんじゃうのー。ねえねえ。おしえてー。にゃはっ!