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ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

インタビューされた(ユーチューブ動画あり)。

 オンライン上で ずっとまえから交流のある瀬戸マサキ(せと・まさき)さんにインタビューされた。

「【6/6イベント直前インタビュー】あべ・やすし さん(『ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』)」
www.youtube.com
13分57秒の動画。

おもな内容は
00:09 - あべさんのこれまでの活動紹介
02:08 - 言語権、言語差別とは
04:58 - やさしい日本語って…?
08:56 - 何をしたら "情報保障"?
というもの。

 マサキさんが たちあげたコミュニティ「ProgrezTribe(ぷろぐれすとらいぶ)」のオンラインイベント「「やさしい日本語とはなにか、どう実践すべきなのか」 〜『ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』を かいた あべ・やすし さんに きく〜」(6月6日)のための事前インタビューです。


 とくに つっこんだ話は できていないのだけど、ふたつ 大事なことを説明した。

 ひとつは、「やさしい日本語をどのように位置づけるのか」、それは「やさしい日本語の対義語をどのように名づけるのか」の問題だということ。

 もうひとつは、「情報保障をして いろんな ひとに とどけたい」、それなら「いろんな ひとに共演してもらう、登壇者になってもらう」のが大事だということ。

 やさしい日本語の対義語として「ふつうの日本語」というのであれば、「必要な だれかに やさしい日本語を提供する」という とりくみ。わたしとしては、「これまでの日本語を反省して、これからの日本語をつくっていく」、そういう意味で やさしい日本語をとらえたい。
 自分と よく似た ひとが発言者として登場するイベントであれば参加したいと感じられる。自分とは関係のないことだとは おもわない。興味をいだく内容で、さらに情報保障があることに意味がある。



 ここから以下は、動画では しゃべっていない内容です。

 つまり、情報保障は、民主主義の問題。情報保障とは、情報をやりとりする権利のこと。情報をうけとる権利だけを保障するのではなく、情報を発信する権利を保障するのが情報保障だということ。いろんな ひとが自分なりの表現で発信する社会にしていく。その結果として、日本語だけの発信だけが流通する社会ではなくなる。これまでの日本語だけが流通する社会ではなくなる。たのしいね。

関連リンク:

履歴書の差別論。

2024年に念願の論文をかいた。

あべ・やすし 2024 「日本の履歴書はどのように問題化されてきたか―名前、住所、顔写真、性別欄、手書き厳守などがうみだす差別と抑圧」『社会言語学24号、11-41ページ

10年以上まえから かんがえていたこと。内容の一部は2003年に ふれたことでもある(「てがき文字へのまなざし─文字とからだの多様性をめぐって」 『社会言語学』3号、15-30ページ。増補版を『識字の社会言語学』生活書院、2010年に収録)。

もくじは以下のとおり。

1. はじめに―日本の履歴書をうたがう
2. 毛筆による、縦書きの履歴書―その規範と内容
2.1 毛筆履歴書の内容
2.2 そのほかの必要書類
3. 敗戦後の変化―履歴書のJIS規格化と「履歴書ペン字横書運動」
4.「社用紙」の問題と「統一応募用紙」の登場―部落解放運動の功績
5. 男女雇用機会均等法が問題化したもの、問題化しなかったもの
6. 日本の履歴書の現代的課題
6.1 ワープロ/パソコンが身近になっても
6.2 性別欄の問題
6.3 写真欄の問題
6.4 就職差別をうみださないシステムを―匿名履歴書と通報制度
7. まとめ
参考文献

 31ページの長文である。参考文献一覧だけで10ページをしめる。
 日本の履歴書問題の全体像をえがこうとした意欲作と いいたい。「履歴書問題」とか「履歴書の差別」のような単行本が1冊でも すでに出版されていれば、どれだけ楽だったろうか。しらべれば しらべるほど、そんなことがあったのか、全然しらなかったという内容ばかり。

 わたしの研究分野は識字研究と障害学と いわれるもので、文字の よみかきについて、社会的障壁(バリア)の問題として、人間解放を追求する。そういう趣旨で文章をかいてきた。今回も、おなじ問題意識で かいている。しかし、履歴書の歴史なども ふくめて検討したため、非常に たいへんだった。労作なので、たくさんの ひとに よまれてほしい。
 いろいろ関連する文献をよんでいて、印象的だったものがある。福島瑞穂(ふくしま・みずほ)が1998年に かいた「「健全な家族」という圧力」という小文だ(『部落解放』1998年3月号、72-73ページ)。

 福島は弁護士として離婚について相談をうけたり担当したりしているとよく質問されることがあるという。離婚すると子どもの進学の面で不利益をこうむることがあるだろうかと。さまざまな書類をかく際に、気になるのが家族について記載する項目だと福島は かいている。その例として履歴書をとりあげている。福島は、ためしに履歴書を3通かってみたという。

部落差別をなくすという部落解放同盟の取り組みから、たしかに本籍地をそのまま書かせる欄はない。しかし昔からの名ごりなのか、三通とも本籍地の都道府県名を書く欄だけはある。…中略…
 はて? この欄は必要だろうか?
 本籍地は、いつでも移転できる。…中略…
 ところで、三通の履歴書のうち、一通は、JIS規格帳票となっているが、これだけ家族構成欄がない。あとの二通は、家族氏名、性別、年齢を書く欄がある。いわゆる母子家庭の人から、この欄は必要なのかという質問を受けたことがある。家族構成欄を見ると、単身家庭であるとか、親ではなく祖父母と暮らしている、子どもたちの姓が違うということがわかる。「単純な家庭」と「複雑な家庭」とを視覚的に分けるようになってしまう。…中略…
 世の中には「健全な家族」を選ばない人もいれば、選べない人もいる。そういう人にとっては、この家族構成欄は苦痛である場合がある。非常に切実な場合だってあるだろう。心の中に「このような記載をしてはねられたらどうしよう」という不安感や恐怖心が生ずるからである。
 履歴書ということで言えば、生年月日なども、年齢を問わなくなれば、もっと言えば、年齢差別がなくなれば(それはものすごいことだが)、不要な欄になる。さらに言えば、性別欄を不要にして、主に職歴で判断するようになれば性差別は少なくなるのではないだろうか。ジョージ・エリオットは、女性だと当時先入観で軽く見られるので男性名で作品を発表した。
 履歴書は、ずいぶん変わってきたけれど、検討の余地はあると思う。それに、市販されている統一用紙以外に会社が自分の会社用のを作っている場合には、もっといろんな問題があるだろう。20年前に私立の小学校を受験したときに祖父母の学歴を書く欄があったと聞いたことがある。差別を引き起こすことは形式からも排除しなくてはと思う。

 「本籍地をそのまま書かせる」とは、どういうことか。住所のように、本籍地を番地まで履歴書に かかせていた時代があったのだ。運動によって改善された経緯がある。履歴書がJIS規格になったことにも歴史的経緯がある。そういうことをしらべたのが、今回の わたしの論文なのです。
 識字研究というと、非識字者の生活史や生活実態などをライフストーリーやインタビューなどで研究したり、識字学習の状況や識字学級や夜間中学の設立・運営状況を調査する研究するものが多い。しかし、あたりまえのように社会で流通している文書について研究したり、具体的な場面における よみかきについて研究するものが、もっとあって いいはずだ。よみかきを主題にして社会をとう実践が必要ではないか。研究テーマは たくさんありますよ。
 わたしは歴史研究が苦手なので、近代日本の履歴書について整理した「2. 毛筆による、縦書きの履歴書―その規範と内容」はあまり上手に かけていない。さまざまな研究者が履歴書について調査し整理し問題提起してほしい。日本の文化の影響をうけてきた台湾や韓国では、日本の履歴書と共通する問題をかかえてきた。韓国で改善されたこともある。台湾で問題提起されていることがあったりもする。世界のなかに日本の履歴書を位置づける研究も必要である。
 その意味で秋山愛子(あきやま・あいこ)の「履歴書日米比較」という小文は問題の本質をよくとらえている(『ヒューマンライツ』1994年6月号、36-37ページ)。

 今回、関連する文献すべてを参照するつもりで努力したが、つぎの文献だけは論文の印刷後に よんだ。歴史と現代的課題が整理されている。あわせて参照してほしい。

松浦利貞(まつうら・としさだ) 2023「統一応募用紙50年―就職差別との闘いの歴史」『すいへい・東京―東京部落解放研究所紀要』58号、46-66


 履歴書の問題は差別の問題であり、差別の実態をふまえてこそ履歴書の問題も あきらかになる。福島が指摘しているように、履歴書の さまざまな項目を苦痛に感じている ひと、不安や恐怖を感じている ひとがいる。そのような不安について、心ない ひとは「心配しすぎ」だとか「形式の問題ではない」などという。しかし、じっさい問題、差別の現実があるのだ。今回の文献調査は雇用差別の実態について確認する作業にもなった。社会的排除の問題として履歴書問題が議論されるようになれば いい。そうでないといけない。そうしないといけない。

関連記事:日本の選挙制度は、なんで投票用紙に字をかく方式なんだ! - hituziのブログじゃがー

世間体を気にする ひとが差別主義者である理由。

 世間体(せけんてい)を気にする ひとは、たいてい差別主義者なのだろう。そのような発見をした。理屈は単純だ。世間とは、一般人のことだ。もちろん、想像上の「世間一般」である。そしてそのイメージは、経験則によって つくられる。つまりは多数派の論理で価値観をつくる。多数派の価値観は、ことごとく差別まるだしである。もちろん、差別解放運動によって すこしずつ認識や態度は改善されつつあるけれど。


 世間体を気にする ひとが家族に いると、たとえば社会運動をする ひと、差別問題に とりくんでいる ひと、あるいはマイノリティである ひとは とても いやな経験をする。はなしは通じない。暴言を何度も見聞きする。差別語を何度も見聞きする。うんざりする。身内だからこそ率直な「本心」を見聞きする場面に でくわすからだ。あなたが主張している内容とは真逆のことを見聞きするからだ。


 しかしである。そのような差別者が 問題意識をもつ あなたのことを、ひととは ちがう あなたのことを、「こんな身内をもって はずかしい」などと感じていたら、とっても「ざまあみろ」ではないだろうか。ぜひとも「はずかしい」と感じてもらえば よろしい。差別者に「はずかしい」と おもわれる あなたは、一方で、理念や問題意識を共有する ひとに、「ほこらしい」と評価される。共感される。「いいね」される。
 共鳴できる ひとが どこかにいる。それで いいではないか。だれにでも やさしく ふるまう必要はないのだ。世間体など どうでも よろしい。世間体を気にする家族も、どうでも よろしい。

イネ科花粉症。

 去年の いまごろ、岡山の園地で草かりをしていて、鼻水が大量に ながれてくることがあった。くしゃみも何度もしていた。これは なんだ。しらべた。イネ科の雑草の花粉症だ。そうか、草かりのときはマスクをしたほうが よさそうだ。そんなふうに かんがえていたが、すっかり わすれて今年も草かりをしたら、鼻水が だらだら。ちょうど友だちが3人きていて、いっしょに草かりをしていたら、ひとりが鼻水ずるずる いっている。わたしも鼻水が とまらなくなった。ようやく、おもいだした。イネ科花粉症だ。

 手首をみると、あかくアレルギー反応も でている。草かりのときは長そでをきて 手ぶくろをしたほうが よさそうだ。


 イネ科花粉症の交差反応でスイカやメロンにもアレルギー反応が でたりもするという。こまった。毎年メロンをたくさん つくっているし、今年は小玉スイカをたくさん つくろうとしている。食前に抗ヒスタミン剤をのむと いいそうだ。じゃあ、草かりをする前にも のんだほうが いいだろう。抗ヒスタミン剤はアレルギー反応をおさえる薬で、アトピー体質なので皮膚科で いつも もらっている。

 もともと、ハウスダストのアレルギーがあり、鼻炎もちだったのだけど、鼻づまりは かなり改善し、日常生活に こまらないほどになっている。そう おもっていたらラテックスアレルギーが判明し、ラテックス-フルーツ症候群のことを知り、食物アレルギーが でる可能性があることが わかった。しかし天然ゴムやフルーツで わかりやすいアレルギー反応が でることはなかった。いまのところではあるけれど。しかしイネ科は わかりやすく反応が でる。こまった。しらべてみたら、ラテックスアレルギーの交差反応としてイネ科花粉のアレルギーになることがあるようだ。結局、つながっているのだ。

 園地に はえているイネ科の雑草を根絶してマメ科の緑肥(りょくひ)に きりかえていくのが いいな。緑肥として、ヘアリーベッチ、クリムゾンクローバー(赤い花のクローバー)、シロツメクサ(よくある白のクローバー)が すこしずつ勢力を拡大してくれている。がんばってくれ。わたしのアレルギーをおさえるためにも。緑肥とは、それが はえていることで肥料のような役目をしてくれる草のことだ。わざわざ草の種をまくのである。


 あ。そういえば この数年はトウモロコシを栽培している。あえて やせた土に うえてヤングコーンを収穫している。土が いいところに うえたやつだけスイートコーンとして収穫している。トウモロコシもイネ科だなあ。トウモロコシの根っこで かたい土をやわらかくしていこうと計画していたけど。アレルギー反応は いやだ。しかし要するに花粉が問題なんだから、トウモロコシの花粉が でているときは ちかづかなければ いいだけかもしれない。どうせ普段は京都に すんでいるんだし。雑草は草かりをしていても花粉が とぶし、そのうえをあるいても花粉が とぶ。やっかいだな。


関連記事

ジャージャーめんと やきそば。

2002年から2年間、韓国に すんでいた。留学。2年も いたら食文化にも なれしたしんで、日本に いても あれが たべたいなあ、みたいなことがある。日本にも韓国料理屋は たくさんある。しかし韓国の定番メニューは あんまりない。日本で しられているメニューしかない。

ジャージャーめん(チャジャンミョン)も その典型。

ジャージャーめんにはセットで ほんのすこし 生の たまねぎが おまけで ついてくる。四角にカットされたやつ。甜麺醤に つけて たべる。日本では そんなことは しられていない。


さて、ジャージャーめんは おいしいか。おいしい たべものか。べつに。おいしくないよ。ただ習慣だから たべる。日本でいう やきそばみたいなもの。中毒になってるから たべるというだけ。インチョンの どこそこで たべようが、ソウルの人気店で たべようが、ジャージャーめんは おいしくない。料理としては ふつう。目玉焼きをのっけたチャーハン(韓国の定番)をあたりまえのように たべるのと おなじで、風景のようなものだ。

韓国では ずっとまえから宅配で料理をたのむのが定着している。ジャージャーめんに、チキン、チャーハンに、チャンポン、酢豚、豚足にチムタク(蒸し鶏はるさめ煮)。なんとなくジャージャーめんを注文してしまうのである。

韓国のテグに いたから、夏は よくチャメをたべた。マクワウリ。黄色の表面に白いストライプの模様。あれだって、よく ひやして たべるから夏には うってつけだけど、いうほど おいしいものではなかった。あまさが ひかえめだもんね。しかしチャメが なつかしい。夏に たべるコングクス(豆乳スープ冷麺)が なつかしい。そんなものです。