2024年に念願の論文をかいた。
あべ・やすし 2024 「日本の履歴書はどのように問題化されてきたか―名前、住所、顔写真、性別欄、手書き厳守などがうみだす差別と抑圧」『社会言語学』24号、11-41ページ
10年以上まえから かんがえていたこと。内容の一部は2003年に ふれたことでもある(「てがき文字へのまなざし─文字とからだの多様性をめぐって」 『社会言語学』3号、15-30ページ。増補版を『識字の社会言語学』生活書院、2010年に収録)。
もくじは以下のとおり。
1. はじめに―日本の履歴書をうたがう
2. 毛筆による、縦書きの履歴書―その規範と内容
2.1 毛筆履歴書の内容
2.2 そのほかの必要書類
3. 敗戦後の変化―履歴書のJIS規格化と「履歴書ペン字横書運動」
4.「社用紙」の問題と「統一応募用紙」の登場―部落解放運動の功績
5. 男女雇用機会均等法が問題化したもの、問題化しなかったもの
6. 日本の履歴書の現代的課題
6.1 ワープロ/パソコンが身近になっても
6.2 性別欄の問題
6.3 写真欄の問題
6.4 就職差別をうみださないシステムを―匿名履歴書と通報制度
7. まとめ
参考文献
31ページの長文である。参考文献一覧だけで10ページをしめる。
日本の履歴書問題の全体像をえがこうとした意欲作と いいたい。「履歴書問題」とか「履歴書の差別」のような単行本が1冊でも すでに出版されていれば、どれだけ楽だったろうか。しらべれば しらべるほど、そんなことがあったのか、全然しらなかったという内容ばかり。
わたしの研究分野は識字研究と障害学と いわれるもので、文字の よみかきについて、社会的障壁(バリア)の問題として、人間解放を追求する。そういう趣旨で文章をかいてきた。今回も、おなじ問題意識で かいている。しかし、履歴書の歴史なども ふくめて検討したため、非常に たいへんだった。労作なので、たくさんの ひとに よまれてほしい。
いろいろ関連する文献をよんでいて、印象的だったものがある。福島瑞穂(ふくしま・みずほ)が1998年に かいた「「健全な家族」という圧力」という小文だ(『部落解放』1998年3月号、72-73ページ)。
福島は弁護士として離婚について相談をうけたり担当したりしているとよく質問されることがあるという。離婚すると子どもの進学の面で不利益をこうむることがあるだろうかと。さまざまな書類をかく際に、気になるのが家族について記載する項目だと福島は かいている。その例として履歴書をとりあげている。福島は、ためしに履歴書を3通かってみたという。
部落差別をなくすという部落解放同盟の取り組みから、たしかに本籍地をそのまま書かせる欄はない。しかし昔からの名ごりなのか、三通とも本籍地の都道府県名を書く欄だけはある。…中略…
はて? この欄は必要だろうか?
本籍地は、いつでも移転できる。…中略…
ところで、三通の履歴書のうち、一通は、JIS規格帳票となっているが、これだけ家族構成欄がない。あとの二通は、家族氏名、性別、年齢を書く欄がある。いわゆる母子家庭の人から、この欄は必要なのかという質問を受けたことがある。家族構成欄を見ると、単身家庭であるとか、親ではなく祖父母と暮らしている、子どもたちの姓が違うということがわかる。「単純な家庭」と「複雑な家庭」とを視覚的に分けるようになってしまう。…中略…
世の中には「健全な家族」を選ばない人もいれば、選べない人もいる。そういう人にとっては、この家族構成欄は苦痛である場合がある。非常に切実な場合だってあるだろう。心の中に「このような記載をしてはねられたらどうしよう」という不安感や恐怖心が生ずるからである。
履歴書ということで言えば、生年月日なども、年齢を問わなくなれば、もっと言えば、年齢差別がなくなれば(それはものすごいことだが)、不要な欄になる。さらに言えば、性別欄を不要にして、主に職歴で判断するようになれば性差別は少なくなるのではないだろうか。ジョージ・エリオットは、女性だと当時先入観で軽く見られるので男性名で作品を発表した。
履歴書は、ずいぶん変わってきたけれど、検討の余地はあると思う。それに、市販されている統一用紙以外に会社が自分の会社用のを作っている場合には、もっといろんな問題があるだろう。20年前に私立の小学校を受験したときに祖父母の学歴を書く欄があったと聞いたことがある。差別を引き起こすことは形式からも排除しなくてはと思う。
「本籍地をそのまま書かせる」とは、どういうことか。住所のように、本籍地を番地まで履歴書に かかせていた時代があったのだ。運動によって改善された経緯がある。履歴書がJIS規格になったことにも歴史的経緯がある。そういうことをしらべたのが、今回の わたしの論文なのです。
識字研究というと、非識字者の生活史や生活実態などをライフストーリーやインタビューなどで研究したり、識字学習の状況や識字学級や夜間中学の設立・運営状況を調査する研究するものが多い。しかし、あたりまえのように社会で流通している文書について研究したり、具体的な場面における よみかきについて研究するものが、もっとあって いいはずだ。よみかきを主題にして社会をとう実践が必要ではないか。研究テーマは たくさんありますよ。
わたしは歴史研究が苦手なので、近代日本の履歴書について整理した「2. 毛筆による、縦書きの履歴書―その規範と内容」はあまり上手に かけていない。さまざまな研究者が履歴書について調査し整理し問題提起してほしい。日本の文化の影響をうけてきた台湾や韓国では、日本の履歴書と共通する問題をかかえてきた。韓国で改善されたこともある。台湾で問題提起されていることがあったりもする。世界のなかに日本の履歴書を位置づける研究も必要である。
その意味で秋山愛子(あきやま・あいこ)の「履歴書日米比較」という小文は問題の本質をよくとらえている(『ヒューマンライツ』1994年6月号、36-37ページ)。
今回、関連する文献すべてを参照するつもりで努力したが、つぎの文献だけは論文の印刷後に よんだ。歴史と現代的課題が整理されている。あわせて参照してほしい。
松浦利貞(まつうら・としさだ) 2023「統一応募用紙50年―就職差別との闘いの歴史」『すいへい・東京―東京部落解放研究所紀要』58号、46-66
履歴書の問題は差別の問題であり、差別の実態をふまえてこそ履歴書の問題も あきらかになる。福島が指摘しているように、履歴書の さまざまな項目を苦痛に感じている ひと、不安や恐怖を感じている ひとがいる。そのような不安について、心ない ひとは「心配しすぎ」だとか「形式の問題ではない」などという。しかし、じっさい問題、差別の現実があるのだ。今回の文献調査は雇用差別の実態について確認する作業にもなった。社会的排除の問題として履歴書問題が議論されるようになれば いい。そうでないといけない。そうしないといけない。
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