hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

連続体を 分断するイデオロギーを たたきのめす。

 いろんな はなしを します。

 いろいろと反響を いただきました。


 さて。わたしが気になるのは、民族的少数派が どのように主張しようとも、「民族的なもの」として色づけられる。それにたいして、社会の多数派による議論は、「民族的に色づけられる」ことなく、「正論か、だめな議論か」という点で評価されるということでした。この非対称な関係が、気になるわけです。


 「ヤマト人」「和人」と いわれて、ぱっとくる ひとは、ほとんど いないと おもいます。わたしも そうです。なにが なんだかです。けれども、それは そのように名づけられてこなかったからではないでしょうか。もし、日常的に「ヤマト人」や「和人」と よばれつづけていれば、自覚を もってみたり、あるいは違和感を もってみたりする。そして、そのようなカテゴリーを うたがい、そして くつがえすに いたるのではないかと感じるのです。
 とにかく、社会の多数派は、民族的な意味でアイデンティティのジレンマに直面せずに すんでいるということです。わたしが指摘したいのは、そういうことです。そして、「だから多数派にも名前をつける」というのは、賛否両論があり、効果的な面も、抑圧的な面も あるということでしょう。それは、わかる気がします。


 わたしが空想するのは、だれにも名前がない社会です。いいかえると、カテゴリーのない社会です。たぶん、空想なのでしょうけれども。


 境界線が恣意的(しいてき)であるということと、いま現に差別があるということは別のことです。そのカテゴリーが恣意的であろうとも、そのカテゴリーは、いま現に差別に利用されているわけです。差別される側として、そのカテゴリーに属している ひとが「わたしたち」を 意識するようになる。


 アイヌというアイデンティティが なぜ意識されるのか。それは排除が あるからです。もし、排除が なければ、だれにも名前はありません。みんなに名前がない。


 そういえば、こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か。 - hituziのブログじゃがーという記事で、わたしは つぎのように かきました。


異性愛とは、なんだろうか。同性愛とは、なんだろうか。よく わからない。これだと規定できるものではない。


だが、ひとつ はっきりと主張できることは、異性愛主義は徹底して批判されなければならないということだ。異性愛という制度は、うたがいつづけ、ぶっこわされなければならない。人間を抑圧する制度だからだ。


 これは、性別というものでも いえることです。


オンナとは、だれのことか。オトコとは、だれのことなのか。よく わからない。これだと規定できるものではない。


だが、ひとつ はっきりと主張できることは、性別主義は徹底して批判されなければならないということだ。


 性別主義というのは、性差別と性別主義 - hituziのブログ 無料体験コースに かいたとおりです。


 性別というカテゴリー(性別二元論)もまた、幻想にすぎません。ですが、その幻想にもとづいて社会が構成されている。そして、性差別が制度化されている。異性愛も制度化されている。ここには、三重の問題があるわけです。性別主義と性差別と異性愛主義による三重の抑圧です。このすべてを 批判することに意義があります。


 さて、連続体に境界線を ひくとき、あいまいな存在が浮上します。これは、多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。のコメント欄で わたしが批判されたことでもあります。


 ここで『脱アイデンティティ』から平田由美(ひらた・ゆみ)「非・決定のアイデンティティ」という論文を みてみます。


 《在日》というカテゴリーは、「韓国」と「日本」という閉じた領域の間に引かれた境界線が乗り越えられることを防御するバリアとして作りだされている。境界線の両側の安住者は、《在日》をありうべからざる両属的な存在として排除することによって、自らの領域の不可侵性を確保することができる。「人種」や「民族」の「純粋性」を根拠とする国民国家の統合原理は、すべての「人種」や「民族」がまぬかれえない「雑種性」を否定するために、帰属のあいまいなカテゴリーを創出し、そこに「不純さ」を転化する。「名前のはざま」に押し込められた人びとは、それぞれの「名前」が作り出すカテゴリーとそこに働いている暴力を感取することができるのである。
(183-184ページ)


 「名前のはざま」。たいせつなフレーズを まなんだ気がします。


 さて、境界線が あいまいという点では、ベジタリアンと非ベジタリアンの境界も おなじです。それは、わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ - hituziのブログ 無料体験コースに かいたとおりです。なぜなら、ベジタリアンの ゆるい定義のなかには、「とりにくを たべるベジタリアン」も あるからです(もっとも、ベジタリアンの多数派は「乳製品とタマゴは たべるベジタリアン」ですが。完全な脱肉食は、「ビーガン(vegan)」と いいます)。


 だからどうという はなしでもないのですが(笑)。ただ、ひとつ いいたいのは、一貫性を もたなければならないという発想から自由になっても いいのではないかということです。


 きょうは 肉を たべなかった。そのとき あなたはベジタリアンです。わたしは、そう いいたい。いつも どこでも一貫した存在でなければ、ベジタリアンになれないというのでは、結局、たくさんのひとを ベジタリアニズムから とおざけてしまいます。それは残念なことだと感じるのです。

 ジェンダーも「行為の つみかさね」です。ジェンダー差別も、まず制度としてあり、そして同時に、日常的な実践として くりかえされています。それでは、どのように行動するのか。


 わたしたちは、もっと もやもやする必要がある。わたしたちは、連続体なのだ。わたしたちを 分断することはできない。境界線は いらない。名前も いらない。
 わたしに名前を つけて安心するつもりなら、わたしは そんな名前を 拒否する。わたしは、なにかではある。だが、その「なにか」を 説明するのを 拒否する。説明させるのを 拒否する。だれかに名前を つけるのを 拒否する。国家を 解体する。そして、国家のようなシステムそのものを 否定する。ただ、平等であればいい。名前は いらない。
 不平等が つくられてしまえば、そこに名前が できる。名前は、不平等の産物だ。わたしたちは、名前のない社会を めざして、平等な社会を めざして、「名前を つける権力」を 内側から こわしていかなくてはいけない。


 平等を めざして、達成して、満足して安心したとき、わたしたちは また だれかに名前を つけるかもしれない。カテゴリーを つくるかもしれない。そのときは、そのときだ。あらためて かんがえよう。いまはただ、いまここから出発しよう。いまある現実から出発しよう。そうするしかできないのだから。


 わたしたちは、時代に制約されている。未来からすれば、まだまだ不自由な存在だ。けれども、そういうものだ。いまここから出発することに意義があるのだ。


 あいまいなのは、いいことだ。いいも わるいもない。そういうものなのだ。だれかに名前を つけて安心しようとする ひとの頭のなかでだけ、はっきりとした存在なのだ。わりきれる、きりとれる、決定的な存在など、どこにもいない。幻想でしかない。
 それにしても、不平等とは いかがわしいものだ。その幻想で、だれかにだけは制限を もうけるからだ。だれかだけは差別するからだ。そうやって その幻想を、制度化してしまうからだ。


 不平等を そのまま放置して、名前だけを とりはらうことはできない。名前だけを 批判することはできない。不平等を 解体し、平等を 実現したとき、おのずと名前は なくなる。すべての分類は、いいかげんなものである。


 それでも分類を、名づけることを、ひとは やめられないのだろうか。それが、ことばを つかうということなのか。わからない。
 けれども、とにかく。平等を めざす。それ以外の目標はない。平等への みちすじは、たくさんあるだろう。まよいながらも、あゆみつづける。


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