hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

どんだけ倫理的なんだよ(「植物だって いのちだよ」)。

 わたしは ベジタリアンです。「ベジタリアンになりましょうよ」みたいなことも たくさん かきました。いやだった ひとは、ごめんなさい。


 でね。わたしが ゆるせないのは、ベジタリアンを 非難するような言論。そういうのを みるたびに、わたしは むかついてくるの。だから、反論したりも しました。たとえば、「少数派には名前がある(ベジタリアンをめぐって)。」 ね。


 ベジタリアンを 非難するような発言を みると、わたしは ほんきで反論したくなる。それで、つぎのような文章を かきました。


 うわあ。たくさん かきましたね。わたしの いやらしいところは、つぎのような文章も かいているところです。

 うえの記事のなかで、「かくも「正しい」動物愛護」などは むしろ 一部のベジタリアンの議論を 批判したものです。けど、基本的に ベジタリアンを非難する議論には 反論しつづけるつもりでいます。


 それで「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」という文章を かいたわけですね。


 結局のところ、ベジタリアンを 非難する議論に 対抗するには、「もう これはベジタリアンになるしかないな」くらいに おもわせるくらいの議論を 展開する必要があると おもうんですね。それくらい、日本社会では「ベジタリアン嫌悪」が定着してしまっている。ミクシィの「ベジタリアン」コミュニティを みてくだされば わかるかと おもいますが、「カミングアウトしてますか」とか、そんな はなしが でてくるわけです。「そこまでかよ」って おもいませんか? たかが、なにを たべるかってことですよ?


 ベジタリアンについて、鶴田静(つるた・しずか)さんは『ベジタリアンの文化誌』で つぎのように説明しています。


ベジタリアンは主義の貫徹者などではない。どのように生きるか、どのような社会を望んでいるか、その考え方の表現者なのである。
(31ページ)


 これが 日本の ベジタリアン嫌悪の ことばでは、「頭のかたい ガチガチの主義者」「えらそう」「おしつけがましい」「うざい」となるわけです。そして、きわめつけのフレーズで かたづけるのですよ。


「植物だって いのちだよ。」
 わたしは感動しますね。とくに、「かわいそう」という感情を ほとんど もたない わたしとしては、これだけ いのちに敏感な ひとは 尊敬してしまいます。なんたる平等主義なのでしょうか。うつくしいと おもいます。これは 皮肉ではありません。


 わたしは おもいを はせてしまいます。「植物だって いのちだよ」という ひとは、いつも なにかを たべているときに、いのち いのち いのち いのち いのちと、ずっと意識されているんだろうと おもうのです。わたしは、とてもじゃないけど たえられません。


 わたしも こう みえて平等主義者ですから、植物だろうと 動物だろうと、たべるのであれば 平気で ころします。わたしはビーガン(完全な脱肉食者)では ありません。ですから それなりには 肉も たべています。肉を たべている以上は、その動物を あたりまえのように ころすことが できます。もし それが できないのであれば、わたしは動物など たべることが できません。ころせるから、たべるのです。


 「植物だって いのちだよ」という ひとは、どのようにして 毎日の 食生活を いとなんでおられるのでしょうか。それほどの倫理観の もちぬしであれば、サラダを たべていても、「いのちを かみしめる」のだろうと おもいます。その態度は、わたしには まねできませんが、ふかく尊敬したいと おもいます。


 わたしが ベジタリアンを する根拠は、「ベジタリアン宣言」の後半に かきました。「肉をたべるには、動物をそだてなければなりません。さて、どうやって そだてましょうか」ということです。


 いのちを たいせつにするのであれば、そして、それでも いのちを かみしめるのでしかないのであれば、えらぶべき選択肢は 肉食を さけることです。肉を つくるためには、たくさんの植物を 消費するからです。



 はじめから いのちを たいせつにしないのであれば、他人が 肉食を さける生活を していようと、いらぬ おせっかいは やかないことです。非難したりしないことです。


 いのちを たいせつにする おもいを 共有してなど いないくせに、ひとを 非難するときだけ 一瞬だけ倫理的になって「植物だって いのちだよ」というのは、いいかげんにしてほしいです。


 ひとを 非難するときだけ、瞬間的に 倫理的になるのは、もう やめませんか?