hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

質問に質問で こたえてみる。


楽しく拝見させていただき、非常に勉強となっています。
本日ははてサの皆様に質問がございます。
よく、ネット右翼の皆様は弱者救済を自己責任論で完結させようとしていらっしゃいます。
この辺の理屈は非常に単純明快でわかりやすいものがございます。
おそらく、私が愚考いたしますに、「俺ら頑張ってきたんだから楽するなんて許さないよ」という心境がございますのでしょう。
皆様は大変努力なされてきたのでしょう。一学生の私はただただ敬服するばかりです。
私にはその考えはとても理解しやすいものです。


対するはてサの皆様は弱者救済を声高に叫んでいらっしゃいます。
慈愛の心に満ち溢れる、自然と出てきた主張でありましょう。
人なのですから、助け合いの心は大切ですよね。
しかし、どのような行動にも「理由」はあるものだと私は考えております。
皆様なりの思うところがあり、弱者保護の拡充、体制の変革を求めていらっしゃるのでしょう。
では、その理由はなんですか?

 はてサというのは、はてなダイアリーでブログを かいているサヨクのことです。とくに議論を さかんにしているひとを さすこともあるようです。わたしは あくまで、はてなダイアリーというサービスをつかって「ウェブに かいている」ので、「はてサ」などというカテゴリーには興味がありません。どうでもいいことです。


 ただ、つぎの ふたつの反応を 拝見して、わたしも かいてみたくなりました。

 トレド(toled)さんの こたえは明快で、「おおー」と おもいました。テラカオ(terracao)さんの こたえは、あることに気づかせてくれました。テラカオさんは、つぎのように のべています。

  1. 弱者は無条件に救済されるべきである。
         ↓
  2. なぜなら、弱者がみな無条件に救済されれば、「弱者」とカテゴライズされるひとはいなくなるから。
         ↓
  3. 弱者がいなくなれば、「弱者は無条件に救済されるべきか」という問いが意味をなさなくなるから。

 なるほどなあと おもいますね。で、ひとつ気になるわけです。なぜ「弱者」とされる存在が この社会で うみだされてしまったのか。うみだされているのか。テラカオさんが のべているのは、弱者が うみだされたあとに、なにを すべきかということです。



 わたしは、おもに障害の問題を かんがえてきたものとして、なぜ「弱者」とされる存在が うみだされたのか、ということを といかけてみたいと おもいます。


 つぎの記事を よんでみてください。


 「配慮の平等」とは、社会学者の石川准(いしかわ・じゅん)さんの表現です。いしかわさんは、つぎのように議論しています。何度も引用することを おゆるしください。


 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
 たとえば、駅の階段とエレベータを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベータは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベータを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる。…中略…
 要するに、障害は環境依存的なものだということである。人の多様性への配慮が理想的に行き届いたところには障害者はおらず、だれにも容赦しない過酷な環境には健常者はいない。…後略…。
(石川 准 2008 「本を読む権利はみんなにある」上野 千鶴子(うえの・ちづこ)ほか編『ケアという思想1』岩波書店、93-94ページ)


 うえの視点を かりるなら、弱者は「配慮されていない人」ということになります。弱者と みなされていない ひとは、さまざまな社会的支援を うけているということです。その一方で、弱者とされる ひとたちは、そういった支援を うけていないということです。そんなことはないと感じるなら、わたしのブログを 「特権」で検索してみてください。あれこれ記事を よんでみてください。いかに社会の多数派は構造的な特権を たのしんでいるかということが、すこしでも ご理解いただけるかと おもいます。


 「なぜ弱者を 支援するのか」という質問は、どこか おかしいのです。本来ならば、「なぜ社会の多数派ばかりが 配慮されつづけているのか」、それを といなおす必要があるはずです。つまり、弱者が うみだされる社会の構造とは、どのようなものなのかということです。


 もっとも、「自分は配慮されているつもりはない」という かたには、通じない議論かもしれません。



 この社会で優遇されているのは、はたして どのような ひとたちでしょうか。わたしには、「弱者」と よばれるような ひとたちが優遇されているなどとは、夢にも おもいません。そして、だれかだけが優遇されるべきだとも おもいません。


 なぜ、特定の だれかたちが優遇されるのか。多数派ばかりが特権を たのしんでいられるのか。わたしは、その理由が しりたい。その理由を おしえてくれる ひとが いるならば、ぜひとも おしえていただきたい。


 これは、この社会を 支配している価値体制の問題なのです。




 この記事を かきはじめる直前に ホクシュさんも記事を あげていました。あわせて ご覧ください。


関連リンク:多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー