hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

映画『クラッシュ』(主役も わき役も いない)。

 アメリカのロサンジェルスを 舞台にした映画です。人種差別を テーマにしています。ぶつかりあうことで、うちとけていくという ものがたりです。なにが すばらしいって、エンドロールの「出演者の配列」です。ほとんど すべての映画では、主役から順番に 出演者の なまえを ならべています。ですが、『クラッシュ』では ABC順で ならべているのです! それは、まるで『クラッシュ』には 主役も わき役も いないんだ。それぞれに ドラマが あるんだ。それぞれに、それぞれなりの 生活が あるんだ。そんなふうに、さりげなく、そして つよく うったえているような 気がしたのです。あっぱれなもんだと よろこんでしまいました。こういうの、すきですね。



 さて。


 それにしても、わたしが いま こうして「人種差別」という表現を 安易に つかってしまうことに、人種を めぐる問題の ねぶかさを 感じます。属性差別(ぞくせい さべつ)と 表現すれば すむ はなしなのですが、安易に 人種差別と いってしまう。レイシズム(racism)という ことばは、人種差別だけでなく、「人種主義」と 訳すことも できるはずです。性差別(セクシズム)が 「性別主義」と 訳すことが できるようにです(性差別と性別主義 - hituziのブログ 無料体験コース)。


 人種概念を うたがいも せず、自明のものとしてしまうこと。そのままで 「人種対立を なくしましょう」というのでは、おかしな議論だと おもいます。人種概念は、白人至上主義の 都合によって つくられた 幻想に すぎないからです。「アジア」という くくりにしたって、ヨーロッパという 地域を 特別な空間であると おもいたがる ヨーロッパ人の 欲望が うみだした 排他的概念(ヨーロッパ以外)に すぎないでは ないですか。


 現代アメリカを うつしだす『クラッシュ』は、「しろ・くろ・きいろ」という単純な わけかたが 通用しないことを ものがたっています。日本で 一般的に「民族」と表現される概念は、すこし洗練されて「エスニシティ(ethnicity)」と いわれます。社会学や 人類学などでは、すでに定着した用語で、むしろ「エスニシティ」という概念の限界や問題点が 議論されている状態です。

 「民族差別」に あたる表現としては、エスニシズム(ethnicism)というものが あります。ほとんど 定着しては いないですね。一部でだけ つかわれている 専門用語と いえるでしょう。


 ひとを カテゴリーに わける。そして、そのカテゴリーごとに なんらかの先入観を もつ。それは、さけようのないことです。ひとを カテゴリー(属性)によって 分類する。それは、いつまでも つづいていきます。たぶん、かならず。


 だって それは、「ひとは 情報を いかに 処理するのか」という問題であるからです。このような はなしは、ある種の 本質主義と みなされるかもしれません。けれども、現実に、分類という ふるまいによって、わたしたちの生活は 完全に 支配されています。その現実から にげないでいたいと おもいます。


 問題なのは、社会的排除です。いつまでも といつづける 必要があるのは、社会的排除です。だれかを みえなくさせる、であえなくさせる社会の構造です。ひとと ひとが であうこと。それは 必然のようでありながら、わたしたちの社会は、きれいに 分類され、隔離されています。この社会は『「隔離」という病い(やまい)』に おかされているのです。



 であえないのに、どうして ぶつかりあうことが できるでしょうか。




 クラッシュ!! わたしは、あなたに あいたいです。


 あなたに あいたい。ピキピキピッキー!!


ごあんない: