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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

社会運動に資格は いらない。

 だれかを 非難したいなら、相手の矛盾を 指摘するのが てっとりばやいようです。「おまえは えらそうに倫理を かたるけれども、おまえは こんなに わるいじゃないか。」「だから おまえには倫理を かたる資格などない。」「社会問題を 論じる資格がない。」 ほんとうに、あちこちで みられる非難です。


 ですが、まってください。


 あなたは一体、なにものですか? そうやって非難してみせる あなたは、どこで なにを しているのですか? あなたは、だれのために そういってみせるのですか? 相手のため? それならいいでしょう。
 でも、もしそれが 相手を 非難することで自分の立場や責任を といなおすことなく 安心するためだったら? 自分から 問題を きりはなすためだったら?


 そのとき わたしは、はっきりと いいます。いいかげんにしてくれ。そうやって安易に安心するのは うごいてからにしてくれ。



 そうです! 社会運動に資格など いらないのです。


 あなたが だれであろうと、社会を よりよくすることに参加して いいのです。資格など、あっては たまりません。ほんとうに。もう一度、断言します。社会運動に資格はいらない。そんな資格は存在しない。


 もし そんなものがあるとするなら、活動する だれかを 非難する ひとの頭のなかだけにあります。一瞬だけ倫理的になって だれかを 非難する ひとだけが、他人に おしつけるもの。それが「資格」というものです。



 さて。もし、ここまでの議論を よんで、すっきりとしたものを 感じつつも、どこか納得できない部分が のこっているとすれば。もちろん、ひとそれぞれ感じかたは ちがうでしょう。
 もし、あなたに 納得できない もやもやが のこったとすれば、それこそが人間の倫理です。



 わたしたちには、ふたつの希望が必要です。ひとつには、こんなわたしだけど、よしやろうという意欲です。そして、もうひとつには、こんな わたしで いいのだろうかという倫理です。そのふたつさえあれば、わたしたちは まえに すすむことができます。


 意欲と倫理があるからこそ、わたしたちは活動できるのです。


 わたしたちは、「こんな わたし」という位置から出発するしかないのです。そして、ゆっくりではあっても、すすみつづけることで 自分のありかたを といなおしていくしかないのです。


 わたしたちは この社会を 希望にみちたものにしていくために、ふたつの希望が必要なのです。よしやろうという意欲、そして、自分のありかたを といなおす倫理。そのふたつを もって、ふみこんでいくのです。


 社会運動に資格は いらない。できることを やりましょう。できることから はじめましょう。


ひとは だれも、ひとつの定義に おさまりきらない。矛盾するのが あたりまえで、一貫性をどこかで うしなってしまうのが当然で、だれかに定義されながらも その定義を破壊するのが人間なのです。「人間は自由である」とは そういうことです。


破壊するとは つくりあげるということで、つくりあげることは破壊されることをさそいます。矛盾を指摘するのは ばかげた倫理で、人間の自由を、人間の多様性を、人間の観点や価値観の多様性を、かろんじているのです。そんな あまっちょろい発想の もちぬしに、批判される いわれなどありません。安心して矛盾しよう! それこそが、価値体制をぶちこわし、社会をつくりかえる原動力では ありませんか?


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