hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

責任を ひきうける。

 いくつかのはなし。「悪意ある責任論」の問題、いわゆる「たち位置(ポジショナリティ)」について、「おまえだって」という批判について。


 たとえば、わたしは知的障害者の施設で しごとをしてます(「あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。」)。わたしの職場はグループホームも いくつも運営しているのですが、わたしの部署は入所施設です。社会の都合で、制限された空間を いきているひとがいます。そこで しごとを している わたしは、毎日の業務で なにを どうしようとも、正義などではありえないのです。これは社会全体の問題ですから、社会をつくりなおさないかぎりは、胸をはれる日など、おとずれはしないのです。それまで わたしは、差別者でありつづけるのです。


 でもだからといって、わたしが自己批判をつづけて絶望して、無気力になって、死んでしまえば正義になれるでしょうか。そんなはずもないのです。


 ですから、たいせつなのは、「わたしは どの方向を むくのか」ということです。たとえば、国籍差別を なくさないかぎり、わたしは差別者です。そして、それは いやなのです。だから、差別をなくすことをめざすのです。


 そしてそれは、意識や かんがえかたを かえるということに とどまるはずがありません。差別を 再生産しつづけている構造を こわす必要があるのです。


id:nodada あー、やっぱり自分の負って立つポジションが差別構造の上に成り立ってる時、人は自分を差別者だと認識する必要があるのかな。中々言えないんだけどね。「俺らは善意があろうとなかろうと差別してるんだよ」って。

 わたしが「差別者です」と かいたのは、だれかの差別発言を 批判していれば「わたしは差別者ではない」と いえるのか? そうではないはずだという視点を提示するためです。
 たとえば、「自分の負って立つポジションが差別構造の上に成り立ってる時、人は自分を差別者だと認識する必要がある」として、じっさいに そうしたとすれば、差別者という「ことばの つよさ」は結果的に よわまることになります。さまざまな視点にたてば、ほとんど なんらかのかたちで だれもが社会の差別構造に よいしょされているという意味で、ほとんど だれもが差別者ということになるわけですから。もちろん、そうした視点は だいじだと おもいます。いくつもの軸を みすえることで差別の構造を あきらかにしていくこと。そうするほかは ないものです。
 「だれもが差別者」というとき、だれもが おなじ程度に差別者であるということではありません。「さまざまな視点にたてば、ほとんど なんらかのかたちで だれもが社会の差別構造に よいしょされているという意味で、ほとんど だれもが差別者」ということなのです。少数派だって差別者だと いうことは、かんたんなことです(「少数派が多数派を差別している」ということではない)。ちがった視点を もちだせば いいわけですから。でもそれは、悪意のある議論です。そうではなくて、わたしは、ていねいな議論をしたい。
 だれにも責任はありますが、そのなかでも責任重大な ひとたちのことを わすれることはできません。


 「一億総懺悔(いちおくそうざんげ)」を 例に かんがえてみます。


敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く[ことごとく]静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡め[いましめ]となし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります


 「一億総懺悔」という言葉は,しばしば東久邇稔彦のものとして伝えられている。しかし,その言葉が「一億総懺悔」というかたちで巷に広まったのは,実はメディアの力だった。…中略…
たしかに「総懺悔」という言葉が使われている。意味的にも「一億総懺悔」ということには違いはない。だが,そこには「一億総懺悔」というフレーズはなかった。
 一方,その日,朝日新聞は「首相宮殿下の談話」と題した社説を載せた。それは次のように結ばれていた。

首相宮が尊い御身をもつて,日夜国政に御苦心遊ばされてゐるとき国民が軽挙妄動すべきでないことは,ここに言ふまでもなからう。正に一億総懺悔の秋,しかして相依り相扶けて民族新生の途に前進すべき秋である。
 東久邇宮の首相就任は「皇族」(つまり,天皇の「身内」)という権威を利用するためだった。この社説はまさにその方向で書かれている。「一億総懺悔」というフレーズの「一億」はいうまでもなく,台湾と朝鮮半島の人々を含んだ数である。ポツダム宣言の受諾によってそれらの地域は植民地ではなくなった。「全国民総懺悔」とした東久邇宮がそうしたことを意識していたかどうかはともかく,「一億一心」を繰り返し強調してきた新聞は,臆面もなくそれを「一億総懺悔」に言い換えたのだった。

 天皇の責任を かくし、さらに、植民地支配された側に責任を おしつける。こんな「責任」の論じかたを ゆるしてはなりません。そして、わすれてはなりません。このような暴力的な責任論を 問うことから、出発しなくてはなりません。


 さて。はなしを もどします。


 要するに、「差別者として自覚する」とか、そういうことは たいせつだとは おもいません。差別は構造の問題であるということさえ理解していれば、それで いいのではないかと おもいます。そして、この社会の一員として、この社会の構造を かえていくことはできるし、その責任があるということが わかっていれば、じゅうぶんかと おもいます。構造の問題だから、どうしようもないなどということはできないのです。これまでの あゆみによって この社会が つくられたなら、これからの あゆみによって、かえてゆけばいいのです。だからこそ、「たいせつなのは、「わたしは どの方向を むくのか」ということ」なのです。


 さいごに、上野千鶴子(うえの・ちづこ)編『脱アイデンティティ勁草書房から。


 そもそも私たちはなぜ、ポジショナリティを問わなくてはならないのだろうか。ポジショナリティを問うこと自体は、決して目的ではない。ポジショナリティを問うのは、コミュニケーションをおこなう際に、自分の発話が、また相手の発話がどのような言説効果をもつのか、そのことを確かめながら、お互いのポジションを確認しながら、コミュニケーションを進めていくためのものである。しかしコミュニケーションにおいて、自己の想定する他者の姿は想像でしかないから、お互いの位置取りはつねに変化し、修正を余儀なくされる。ポジショナリティを問うことは、このように誤解を修正しながら、コミュニケーションを進行させていくためにおこなうものであって、決して誰かに何らかの発言を禁じたり、発言をその話者の属性に還元したりするためのものではない。ひとりの人間のポジションは、同一の場ですら文脈が変わることにより、また話者によって複数あり、潜在的には無数にあるのだ。
 そしてさらに、自らのポジショナリティを問うことにより、自己の責任が免責される誘惑に、私たちは打ち勝たねばならない。
(284ページ)


 では、どうするのか。千田は、「ポジショナリティを明示化したあと、自分の立場を他の場所に置いて満足してしまうのではなく、そのこと立場自体を引き受ける、責任を引き受けることが必要だ」としている(284-285ページ)。


 たいせつなことは、責任を ひきうけるということです。そのひとが責任を ひきうけようとしているのなら、「おまえだって○○じゃないか!」という非難は、あまり適切だとは おもいません。もちろん、「おまえだって」と「いいたくなるもの」「いいたくさせるもの」が そのひとの議論にあるのかもしれません。それならば、「おまえだって」と感じさせる「なにか」を つきとめることで、議論に即した ていねいな議論ができるはずです。「おまえだって」で かたづけるまえに、ふみとどまってみたい。そんなふうに感じます。