hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

コミュニケーションに正解は ありえない。だから、

 うえの記事の つづきを かきます。


 ときに、「わたしは障害者と接したことが あんまりなくて、どんなふうに接したらいいのか わからない」という声を きくことが あります。たいせつなことだと感じると同時に、不思議な発想だとも感じます。

 うえの記事で紹介した ことばに「人は病い一般を生きるわけではありません」というのが あります(『認知症と診断されたあなたへ』25ページ)。


 これは、とっても たいせつな視点です。これは つまり、「一般的な障害者」など存在しないということです。一般的な自閉症など、存在しないということです。一般論では わりきれないということです。どこにも「一般的な ひと」など存在せず、具体的な ひとが ここにいるというだけなのです。


 ですから、「障害者との接しかた」というものは あるはずが ないのです。ひとは けっして、大量生産で つくられた「モノ」ではないのです。だったら、ひととの接しかたに、マニュアルなど あるわけがないのです。正解は ありえないのです。



 ひとは、具体的な「ちがいのある ひと」に であったとき、とまどってしまいます。なんなんだ。意味が わからない。どうしたら いいのだろう。この ひとは、なにが したいのだろう。


 そして、時間が たつにつれて、相手を とおざけてしまいたくなる。いやだ。きらい。あっちへ いって。


 そして、相手が 社会的弱者であるとき、ひとは もう一度 とまどいます。これは差別ではないのか。まちがっているのではないか。



 わたしなら、そんな あなたに つぎのように つたえます。


 具体的な だれかと であい、とまどってしまう。たとえば そのひとが自閉症者だったとしましょう。そのひとが のぞんでいる接しかた。それが わかるために必要なのは、自閉症というものについての知識などではありません。そのひとと、どれくらい接してきたかという歴史で わかるようになるのです。


 もし障害者や自閉症という くくりでしか とらえることが できずに、「そのひと」が みえてこないならば、ある種の障害者幻想に とらわれているのではないでしょうか。


 「障害者との接しかた」などというものはありません。ちがいが ある。だから とまどう。それだけのことです。問題は、ある種の「ちがい」を とおざけるように社会が設計されているということです。つまり、隔離による社会的排除です。構造的差別という視点を もたずにいたら、差別を 「意識の問題」に おしとどめてしまいます。


 そういったことは、やっぱり たくさんのひとと であうことでしか気づけないことかと おもいます。だから、であいを たいせつにしてください。


 ひとつ確認しておきます。たとえば、だれかと接していて「めんどくさい」と感じたとき、その感情は、とても たいせつなことです。その感情と むきあうこと。それによって、なにかが みえてきます。その感情を かくしたり否定したりすることで、えられることは ありません。


 コミュニケーションに正解は ありえません。だからこそ、ひとは なやむのです。だからこそ、途方にくれるのです。なにが のぞましいコミュニケーションであるのかは、一般論で かたることはできません。それならば。だからこそ、「自分のコミュニケーションを観察する」必要があるのです。



 以上です。もしかすると、えらそーな文章になったかもしれません。けれども、わたしは「あなたに つたえたい」。「あなたに かんがえてみてほしい」。このブログは、そのためにあります。


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