hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ひらがな あなーきずむに よーこそ。

 大学生のころ、テレビを よく みていた。よるは、いつも「ニュース23(ツースリー)」を みていた。筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが なくなった。ちくしさんは、23や『週刊金曜日』で漢字について保守的な態度を とっていて、しばしば わたしは いやーな気分にさせられた。


 漢字だいすきな サヨクなんて いらないのですよ。社会的障害である漢字を たいせつに おもうっていうのは、車イスで 利用できない公共機関を たいせつに感じるのと おんなじことですからね。「おれは 漢字が すきなんだ」で議論を おわらせようという ひとが いますが、アクセス権の問題ですよ。いかに共存するのかっていう問題ですよ。

 うえの記事を よんで、「でも、少数派のなかにも 漢字が すきな ひとが いる」「漢字が 有効な ひとたちも いる」ということを いう ひとが いらっしゃる。それで反論のつもりですかっての。おかしーじゃないですか。

 うえの記事に かいたとおり、「視覚障害者といえば点字」というイメージは固定観念です。視覚障害者の半分は弱視者で、弱視者は点字ではなく拡大文字を 利用する。点字を よみかきしているのは「視覚障害者」の1割ほどだ。


 でも、だからといって 点字の必要性が なくなるということにはならないのですよ。あたりまえのことでしょう。


 少数派は一枚岩の存在じゃない。それはそうです。けれども、現に たくさんの ひとに 漢字という文字が 社会的障害として 排他的に はたらいている状況を みるならば、このままで いいはずは ないのです。なんらかの対策が必要なのです。けれども、その必要性は ないと 主張しつづける ひとが いる。


 「わたしは漢字が だいすきだから」。そうは いわずに、「少数派のなかにも…」で ごまかそうとする ひとが いる。少数派のなかにも…なんだって いうんですか。


 「だって むりじゃないか」。そんなふうに いう ひとも います。むりだったら、なんでも ゆるされるのでしょうか。むりだったら、ほっておけば問題は なくなるんでしょうか。そんなはずは ありません。

 うえの文章を ぜひ よんでみてください。どれほど「むり」なことが かいてありますか。


日本語表記の最大の障害である固有名詞の漢字には、すべてによみかたをそえることを提唱する。それは、識字のユニバーサルデザインにむけての第一歩であり、そしてそれは「現場の苦しみ」をおおきく解消するのである。


 総理大臣が 漢字を まちがえるからって、それを もって 批判するのは、ばかげています。麻生(あそう)という ひとが くだらないのは わかりきっています。何年もまえから わかっていたじゃないですか。


 危険な思想の もちぬしだから、批判できるところは 批判しておくんだ。それは、ただしい態度だと おもっています。けれども、漢字の知識は、「批判できる」ことでは ないのですよ。

 わたしの家族には、新聞が よめない ひとが います。漢字は ある程度 よみかきできるけれども、たぶん、あそうという ひとよりも、漢字の知識は ないでしょう。そんなひと、ざらに いるわけですよ。たくさん いるわけですよ。


 そして、かなしいことに、ゆるせないことに、漢字の知識が とぼしい ひとを あざわらい、ばかにする社会を、わたしたちは つくりあげてしまっているのです。これは、ずっとまえからそうです。どれくらい 漢字を よみかきできるかで ひとを 評価したり、わらったりする「相互監視社会(そーご かんし しゃかい)」を つくってきたのです。ほんとうに、いやな社会です。


 今回、日本が ほんとうに いやな社会であることを、「あそうは 漢字が よめない」という たくさんの発言によって、再確認させられました。


 ひにくですけど、ほんとうに ありがとうございます。やるきが でるってものですよ。こんな やるきなら、そもそもは もたずに すんでしまうほうが、ほんとは いいのですけど。まったく。



 さて。アナーキズムは、むちゃくちゃな状態を めざすというよりも、支配のない社会を めざすものです。


 「だれをも支配しない。だれにも支配されない。」それが アナーキズムというものでしょう。わたしは、そう おもっています。



 漢字という文字が 社会的障害として たくさんの ひとの社会参加を 制限しているならば、漢字を へらすこと、よみがなを そえること、わかちがきすること、あるいは、ひらがなだけの文章を 提供すること、そうしていくことも、ひとつのアナーキズムの実践でしょう。


 なにも、急進的な改革を 主張したいのでは ありません。混乱が おきてしまわないように、改善は ゆるやかで あっていい。ゆるやかながらも、漢字という障害からの自由を めざす必要が あると おもいます。


 漢字からの自由。いつの日か、実現させましょう。



 ひらがな あなーきずむに よーこそ!!



追記:(有用な情報にアクセスする権利がほしい - the::bungakuのコメント欄に かいた文章を 一部 修正)


 アナーキズムについては、いろいろなイメージが まとわりついているので、あまり よい表現ではなかったかもしれません。
 わたしの議論が急進的な「漢字廃止論」ではないことは、「ユニバーサルデザインは たし算の思想である。」に かきました。


「文字に こだわりつつ、こだわらない」に かきましたとおり、わたしは「文字をよめること」を前提に議論しては いません。


「じゃんけんのユニバーサルデザイン」を およみになってくだされば、わたしの主張の方向性は ご理解いただけるかと おもいます。


 さて、電子テキストであれば、ふりがなを 自動で ふることが できます。それは、「ウェブページで ふりがなを表示する(自動)」に かきました。ですが、地名と人名の固有名詞の漢字は、機械で 正確に よみとることは不可能です。ですから、「識字のユニバーサルデザインにむけて」で固有名詞の漢字には、すべてよみがなをそえることを提唱しているのです。


「弱視者の読書権を めぐって。」という記事などで 読書権という理念を 紹介したことも ありますが、出版や文字情報のユニバーサルデザインを かんがえるさいに重要なのは、電子テキストが 提供されることです。電子テキストであれば、フォントや 文字の おおきさ、あるいは ふりがななど、すきなように表示させることができます。


 読書工房から でている『出版のユニバーサルデザインを考える』という本を、ぜひ よまれてみてください。わたしは ものすごく射程の おおきい議論を しています。その一部を「今回も」すこし 提示してみたということですので、わたしの議論の全体像を みわたしていただけると、こころから うれしく おもいます。

 なお、ユニバーサルデザインは、ユニバーサルサービスとセットにして 理解されるべきだと おもっています。文字改革だけで 問題が 解決するはずはなく、文字情報サービスが 必要であると、「漢字という障害」という論文や、「識字のユニバーサルデザインにむけて」に かきました。


 「わたしは、「ただひとつの理想的な日本語表記」をつくり、それを社会の全員で使用すべきだとは主張しません。」(ユニバーサルデザインは たし算の思想である。より)

 すばらしい記事です。ぜひ およみください。トラックバックを いただいたことを、こころから感謝します。id:ngswさん、ありがとうございました。


「「おしつけるな」論法」も、あわせて およみください。



追記:


 アナーキストの みなさんが、反応してくださいました。ありがとうございます。