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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

不平等な関係が「本名と通名」のジレンマを うみだす。

 まず、うえの記事を ごらんください。


 いろいろな論点があるわけですが、ひとつ たいせつな点が論じられていないように感じました。それは、日本社会において、多数派である日本人は「本名と通名」のジレンマを かかえていない。それにたいして、少数派である朝鮮系の住民だけが「本名と通名」のジレンマに なやまされている。その非対称性が問題だということです。関係が不平等だということです。


 少数派には通名がある。多数派には通名がない。


 その不平等な関係に問題があるのですから、


そもそも「本名」という名辞そのものがいかがわしくないか。本当の自分どうように。
というのは、もっとも「いかがわしい」ものを 放置してしまっているように感じます。もっとも、liangさんには とっくのむかしから わかっていることなのだと おもいますが。この記事で liangさんが とりたてて かいておられない点について、わたしなりに かいてみたいと おもいます。かきたくなったものですから。

 わたしは、うえの記事で「自分さがしとは、「安心」をさがしている」「不安のあらわれ」だと かきました。ひとが「自分さがし」や「ほんとうの わたし」など、アイデンティティについて なやんでしまうのは、そのひとが不安定な状況に おかれているからだと、わたしは おもいます。


 日本社会で、「在日」として朝鮮系の住民が生活している。そのことに 敵意を むきだしにする日本人がいる。その敵意が具体的な暴力として あらわれてきた歴史がある。それゆえ、なまえを なのることができない。恐怖心を いだいてしまうから。いえ。日本人が恐怖心を あたえているから。


 liangさんは、つぎのように かいています。


 崔や金を名のることは、均質化された日本社会に亀裂を差し込む、大日本帝国植民地主義をはじめとする戦争の災禍のいまなお解消済みでないことを際立たせる、という意味では無意味なことではない。


 それに呼応して、日本人と呼ばれ(考えられ)ている者たちが、どれだけそれへの責任を果たすかだ。
 呼応によらなくてもよい。日本人みずからが、日本人であることの意味を問い直すことがひつようなのだろう。

 この点については、カミングアウトについての わかりやすい記事があります。


カムアウトは一方が「自分は同性愛者です」という事実を告げるだけでは終わりではないのだ。カムアウトは、カムアウトする側が、される側に、この世の中を支配している異性愛中心主義と、相手の内面にある同性愛嫌悪に気づいてもらい、そーゆー先入観と実際の同性愛者(自分)はかなり違うっていうことに気づいてもらうという共同作業。そこまで言って、はじめてその目的を達成するんだと思う。

 カムアウトは「共同作業」というのが、なるほどなあと感じました。


 さて。liangさんにはliangさんの文脈があるわけで、つぎのような問題意識は すばらしいと おもいます。


 たとえば、「祖国」韓國に帰れば、韓国という国家に管理されるのが「名前」ではないか。


 韓国の李明博政権に同調することを願うのだろうか? 名前が国家の管理下にあるのを忘れないでいたい。


 だから、「本当の」名前など、ない。祖国がないのと同じように。他者としての国家に命名されたものなのだ。


 祖国や故郷というセンチメンタルな語が、そのゆえにこそ求心力を持ってきたのが近代であり、植民地主義なのだろう。


 故郷がもしあるとするなら、「世界」だとする、『故郷の世界史』のキム・チョンミさんの言葉を想い起こそう。


 故郷などないし、いらない。祖国もない。それでけっこうではないか。かりそめの名前でいいではないか。

 なかなか いえないことだと おもいます。ただ、です。

  • 少数派には名前がある。多数派には名前がない。
  • 少数派には通名がある。多数派には通名がない。

 わたしは、この非対称性を、不平等が解消されるまで、といつづけたいと おもっています。


 なお、liangさんが懸念されているのは、つぎのようなことだと おもいます。


 ただ、在日朝鮮人たちに、カミング・アウトを強制するのはどうだろうか。


 それこそ「弱者」に対するさらなる抑圧である一面もなくはないだろう。


 闘いの方法は多様でいい。本名を名のるのもそのひとつなのだ。絶対化しないで欲しい。


 そうですね。たいせつなのは、この日本社会に「通名と本名」のジレンマが存在するということです。そのジレンマを おしつける暴力を 批判する。そうしていきたいと おもっています。


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