hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

だれでも ない あなたへ(ベジタリアンには名前がある。では、あなたは?)。

 うえの記事に かいたようなことは、「多数派のオフサイド トラップ」に ひっかかりやすいのです。これは、多数派が いじわるだからで、わたしの議論に 問題が あるからではないと おもいます(笑)。


 え、「「多数派のオフサイド トラップ」って なんだ?」ですって? すばらしい質問です!

 うえの ふたつの記事を よんでください。


 こむつかしい ことばで「有徴(ゆうちょう)」って いいますね。医者に たいして、女医という。文学にたいして、女流文学という。医者は「無徴(むちょう)」で、女医は有徴です。「しるしが ついている」ってことです。「ふだが ついている」と いっても いいですよ。無徴のほうは、特徴がないと いいますか、それが標準と いいますか、「余分なラベルが ついていない」。


 ベジタリアンには名前がある。では、非ベジタリアンは どうか。


 「ふつうのひと」「一般人」「ベジタリアンじゃない ひと」


 そんな感じ?


 こういうのをね、「だれでも ない ひと(ノーバディ)」って いうのです。自分が だれであるのかを 意識せずに いられる ひと。アイデンティティからの自由。これって特権なんですよ。


 自分を「日本人」と規定すれば それで すんでしまう ひとたち(わたしも そうです)。その ひとたちのことを、わたしは「民族フリーのヤマト人」と よびます(10年まえのレポート(「民族フリー」のヤマト人)。 - hituziのブログじゃがー)。



 こういった 「だれでもない」立場から 名前をもつ だれかを 非難するのは、とても かんたんなことです。だって、自分は だれでもないという安全地帯に 身を おいているのですから。属性が ないという権力! 属性からの自由という権力! なんという安全圏!


 「社会に埋没(まいぼつ)できる」状態に ある ひとが、名前のある少数派を 非難するとき、それは すでに個人と個人の対立などではなく、多数派が少数派を 抑圧する言論になってしまっているのです。わたしは、この非対称な関係のありかたが ゆるせません。そして、その非対称性に よりかかって 少数派を 非難する 多数派が ゆるせないのです。べつに、いつもいつも そんなことを かんがえているわけではありません。けれども、やっぱり気になりますよ。


 名前のある 少数派を 非難する あなたへ。では あなたは どうなのか。あなたは いったい、だれなんですか。