hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ブログにできること。

 「ブログで できること」のほうが いいかな。主体は、わたしにあるからね。ブログは手段だ。メディアだ。

 はてなダイアリーに うつってきた ころの記事です。うえの記事で、わたしは つぎのように かきました。


…じぶんは「神様やろう」な位置に いると錯覚している ひとたちに、敵対構造、非対称な現実に まきこみ、きちんと位置づけなおすことが必要なんだと おもいます。


おまえにも社会の一員として 責任があるというのは、いきすぎた一般化などではなく、必要な言論です。

そして、平等ではない いまの現実を みるなら、もちろん、責任重大なひとたちのことを 批判しないわけには いきません。


「だから一般化は いけない」とか、そんなこともないとか、そういう議論は すきじゃない。


多数派を まきこんでいくために、一般化は必要だし、まきこんでいくことで、いまの体制を ゆるがしていくことが社会運動の課題なのだと おもいます。


一般化は、それじたいが目的ではありません。多数派を まきこんでいく戦略であり、まきこもうとすることじたいが「闘争」なのです。


 たとえば つぎのような記事は まさに、よんでくださっている ひとを ゆさぶり、まきこんでいくために かいています。

 どれもこれも、感情を 刺激するようなことを かきました。うれしかったのは、きちんと反応が かえってきたことです。しっくりこないところ、反発、批判、あるいは共感や賛同を、たくさん いただきました。

 うえのリンク先の一覧を みていただければ、はっきりと数字になって表示されています。それぞれの数字のリンク先を みていただければ、言語化された反応を みることができます。どれもこれも、よみがいのある反応です。


 さて、数ヶ月まえに 友人のかどや ひでのりさんが論文を おくってくれました。

  • かどや ひでのり 2008「人権教育とはなにをすることか-その課題の教育方法学的検討」『社会文化形成』2号、23-39(名古屋大学 社会文化形成研究会)

 かどやは この論文で「差別者が自己の差別性を不快感なしに認識することは、ほとんどかんがえられない」とし、つぎのように論じています。


差別現象の学習とそれに関する自分自身の感情の相対化、差別をうみだす構造の認識、その構造内における自分自身の社会的位置の把握という過程をつうじて、いわば知的撹乱をひきおこすことこそが人権教育がはたすべき役割である。
 そして、「構造的差別」という視点の重要性を かたっています(36ページ)。


 すこし むずかしい文体かもしれませんが、わたしが「まきこむ」に かいた内容と、おなじような問題意識で かかれているように感じます。


 それは かどや論文の原稿を ずいぶんまえに拝見したからでもあります。つぎの記事を おぼえていらっしゃる かたも一部に いらっしゃるでしょう。

 うえの記事は、かどや論文の原稿を よんで 刺激を もらって かきあげた文章です。この記事も たくさん反響がありました。かどや論文は、注意がきの 2 で、つぎのように わたしの記事に言及しています。


「ただし、人権教育は現行の教育システムのなかで根本的な矛盾を内包せざるをえなくなっている。


「ある学校で、人権教育をおこなう。どのような人権をおしえるのか。どのような教育にするのか。それを議論することも大事だ。けれども、学生たちが その学校に かようようになるまで、さまざまな選別を通過している。学生たちは、選別に勝利したものたちだ。選別というと、入学試験だけをイメージしているかもしれない。だが、そうではない。「就学時健診」による選別もある。(中略)そうなると、人権教育をなりたたせるものは、従順な学生の選別ということに ほかならない。意図していなくても、人権教育の授業もまた、少数派の排除によって成立しているのである。(中略)統制のきくひとたちが参加する学校。そこで なにが おしえられようとも、人権侵害を前提とした社会システムに ほかならない。」(あべ2008)
」(37ページ)


 知識を ラレツするだけなら、本の一部を 引用していればすむし、それならべつに ブログなどではなく、じっさいに本を よんでいるほうが 楽かもしれません。なにか理由があって本を よむのが しんどい場合を のぞけばです。知識なら 本に かいてあるのです。


 けれども、「このひと」がブログに かいている文章は、ブログでしか よめない。その「このひと」に 愛着や興味が あればこそ、そのブログを よみたいという気もちになります。


 映画『グッド・ウィル・ハンティング』で、ロビン・ウイリアムスが演じる精神科医が かたりかけていました。「ただの知識なら 本に かいてある。わたしは 君の はなしが ききたいんだ。」 そんなセリフです。


 あれ? はなしが ずれてきた。そういうはなしじゃないよ。もー。


 ちがうちがう。それも いいけどさ。


 ブログにできること。ブログで できること。それは、よんでいる あなたを ゆさぶり、感情を ゆるがし、あたらしい世界観を 提示し 混乱させることで、なにかを うみだすことです。それを ことばにしていただくことです。あなたを かえることです。


 わたしは それを 信じています。だからこそ、わたしのブログを たのしみにしてくださる ひとが たくさん いらっしゃるのだと おもっています。だからこそ、ほんのわずかでも影響力を もちえているのだと おもいます。


 いつもいつも、「hituziのブログじゃがー」を よんでくださり ありがとうございます。


 そして、はじめましての あなたへ。



 こんにちわ。どうぞ よろしく。ゆっくりしていってね


追加リンク:「人権教育とはなにをすることか―その課題の教育方法学的検討」PDFファイル