hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「よみにくい」というまえに。

 うえの記事は、はじめて よむ ひとにとっては、なかなか スリリングな 文章だと 自負しています。もう一度よんでみても、やっぱり スリリングだと おもいます。はだかの王様を あばいているからです。


 さて。

 うえの記事を よんでも、「よみにくい」で かたづけてしまう ひとが います。

 うえのブログを、よむ気に ならないという ひとが います。



 ひとつ、といかけます。おこたえください。


 漢字かなまじり文によって、日本社会で生活しているひとびとを「支配」することはできる。しかし、漢字かなまじり文による平等や民主主義というものは、実現できそうにない。なぜなら、「日本語が第一言語、めがみえる、みみがきこえる、こどものころから字をならった、学習障害や知的障害がない、などといった条件がそろわないかぎり、漢字弱者は構造的につくられる」からである(あべ2004b:54[漢字という権威])。それでもなお「多数の同意にもとづいて」漢字かなまじり文を維持するのならば、どのようにして平等で民主的な文字社会をきづいていくのかを、その「多数」が検討しなくてはならない。
(137ページ)



 さて、どうしますか。いっしょに かんがえましょう。


 わたしなりの こたえは、うえの文章に かきました。


 たとえば、つぎのブログでは、きちんと ご理解いただけました。


 日本語を かくということ。ウェブに アクセスできて、こうやって日本語のブログを よんでいる ひとは、日本語を よみかきすることが よくあるはずです。あなたにとって、とっても身近なことのはずです。


 北谷淳(きただに・あつし)と かくことが、それほど むずかしいことですか。


 「きたや・じゅん」と よまれてしまうかもしれないのに、北谷淳とだけ かくことが、それほど たいせつなことですか。



 人名・地名の 固有名詞の漢字は、日本語の もじのなかでも、最大の障害です。どうか、ご理解ください。



ここまでの議論: