hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

さえぎらないで。だまって うけとめることから はじまる対話も あるの。

 あのね。まだ おぼえている。そして、ふと かんがえるの。


 このブログでも、そういうことが あるのかもしれない。あまりに ひどい現実が 提示されて、なにも いえなくなるようなことが。


 あのね。だれかが だれかを ストレートに批判したとして、だまらせてしまうようなことが あるじゃない?



 それを どう とらえるか。かんがえているの。まえにも、かんがえたことが あったわ。


 たとえば戦争責任について、そして戦後責任について 批判されたとしましょう。そのとき、まずは 批判してくださる かたの 声を、まっすぐに うけとめないといけないと おもうの。たとえ、そこで「ごめんなさい」と あやまったところで、それは その かたの声を さえぎることになってしまうわ。まずは、うけとめましょうよ。うけとめないことには、はじまらないでしょうよ。


 徹底的に非対称な関係において、そして、ささやかな批判を いただいているときに、すぐにすぐ対話が できるなんて おもっちゃいけない。わたしは、そう おもってる。うけとめて、頭ぐるぐるで、ちいさくなってしまうかもしれない。けどね。それは わたしが、加害の側に いる ひとたちが、ずっと だれかを ちいさくさせてきた歴史が あるの。それを わすれてはいけない。



 まず、うけとめることから はじめましょう。しばらく なにも いえなくったって いいの。それは、まっすぐに うけとめたからでしょう?


―ねえ、わたしに なにが できる?



 そんなことを きくまえに、さえぎらないことを まなびましょう。だまって うけとめることくらい、できることでしょうよ。



 さえぎらないで。だまって うけとめることから はじまる対話も あるの。


 ことばを いそがないで。だって、じっくり かんがえることから 対話を はじめるしかないじゃない。



 ゆれて、ぶれて、ぐらついて。ゆさぶられて、そして うごくのよ。

ハン・チェユンさんは いってるわ。


「視線の変化なしに、力の変化がおとずれるだろうか。」

「はなす側と きく側の位置が固定的であれば、それは対話ではない。対話ではないなら、なにを かえることができようか。」

 わたしたちは、ただの一個人に なんてなれないのよ。それぞれが、背後に たくさんのものを かかえているの。


―偏見なんてない?


 けどね。偏見なんてなくてもね。あたしたちは、「構造的差別」から のがれることは できないの。現実を かえていかないかぎりは、社会の構造が あなたの位置を きめてしまうの。それが現実というもの。


 しっかり うけとめて、つたえるべき ことばを、つたえるべき相手に ぶつけていきましょう。