hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「みみできいてわかる文章のために」

 うえの記事に、ブックマークコメントで 文章が わかりやすい/わかりにくい以前に「よみにくい」というご意見を いただきました。そんな みなさまには、したの記事とリンク先の文章を ぜひとも よんでいただきたいと おもいます。よろしく おねがいします。


 さて、さっき おもいだしたのですけど、「ことばに おしゃれは いらない。」で、最後に つぎの文章を ご紹介しようと おもっていたのでした。すっかり わすれていました。

 もう9年ちかくまえの文章です。大学2年生のときのレポートですね。このころから、レポートや試験の なまえは、あべ やすしと表記してきました。「和語を かなで かく」(訓よみ漢字は、かながきにする)スタイルも このころからです。大学2年の後期のときに、社会福祉学部の「点字」の授業を うけたのですが、その経験と そのころ よみあさっていた 野村雅昭(のむら・まさあき)さんや梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんの本の影響で、わたしは いまのような日本語表記を えらんだのでした。
 後半を 引用します。


 わたしは、かなでかくと意味がつかめなくなるような漢語はつかうべきではないとおもう。そうしないかぎり、みみできいてもわかる文章にはならないからである。わたしはみみできいてわかる文章をかくように、いつもこころがけている。それは、文章は「墨字(すみじ)」をよめるひとだけの独占物ではないとおもうからである。目のみえないひとも、点訳された一般の文章をよんでいることをけっしてわすれるべきではない。わたしは点訳を経験してはじめて、いかにわれわれが漢字にたよって文章をかいているかに気づかされた。現在、バリアフリーがすすめられていくなか、目のみえないひとのために、みみできいてもわかる文章をかくことも必要であるとおもう。
 ひとによっては、日本語の国際化のために漢字はやめようというひともいる。しかし、現実は、日本国内でさえ、日本語はひらかれてはいないのである。田中克彦は、「アイヌに誇りをもつのが真の「先進国」」というエッセイで、(『ことばのエコロジー』収録・1999年・筑摩書房)「内における国際化もできていない人たちが、どうして外にむかって国際化ができるだろうか」(13ページ)とのべている。
 日本語をひろくひらかれたものにするには、どうしても漢字は障害になる。それは、漢字が本来、特権階級の独占物であったことと無関係ではないであろう。これからは、漢字にたよらずに、点字になおしても、つまり、表音文字になおしても、無理なくよめる文章をかくべきである、というのがわたしの結論である。
 「漢字は障害になる」と、この段階で いっていたのですね。『社会言語学』2号に原稿を 投稿するのに題を あれこれ かんがえて、やっと おもいついたのが「漢字という障害」でした。このころにすでに そのフレーズが発想にあったということですね。


リンク: