hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

日本語表記と共存について(結論だけでなく、プロセスも たいせつ)。

 やねごんさんの問題提起を うけて。わたしなりに。



 『月刊ノーマライゼーション』という雑誌がある。いちど、翻訳を のせたことがある。ウェブに公開されている。


 わたしの卒業論文現代日本における「識字」のイデオロギーと漢字不可欠論」で、『月刊ノーマライゼーション』に 掲載された いくつかの文章を とりあげた。つぎのようなことだ。


 『月刊ノーマライゼーション』2000年12月号に、「外国人」(日本語学習者)による日本語の文章が のっている(63-67ページ)。

  • 韓国人の文章:漢字まじり。わかちがき。
  • マレーシア人の文章:漢字まじり。べたがき(わかちがきでない)。
  • モンゴル人/タイ人の文章:ひらがな、カタカナ表記(漢字なし)。わかちがき。


 わたしは「ノーマライゼーション」という社会福祉のスローガンに それほど共感するわけではない(社会的包摂(ほうせつ)や ユニバーサルデザインに共感する)が、わかちがきされた かながきの文章や、わかちがきされた漢字まじり文を そのまま 掲載するのは、まさにノーマライゼーションであると感じる。

 この「点字問題をめぐって」という論文で くろかわは、つぎのように主張している。


レポートや文書を提出する時に通常の漢字仮名まじり文である方が良いに決っている。
(46ページ)


 いっぽう、福井哲也(ふくい・てつや)は『月刊ノーマライゼーション』1996年 7月号で盲人のたちばから、つぎのように のべている。


私信ぐらいならよいが、仮名だけの文章を正式の場面で通用させることは、なかなか難しい。
「ワープロと視覚障害者」48ページ)。


なぜそれが「なかなか難しい」のだろうか。それは、日本の社会全体で「レポートや文書を提出する時に通常の漢字仮名まじり文である方が良いに決っている」という発想が支配的だからだ。



 ふくいは、「日本から漢字がなくなることは、哀しいかな、絶対に望めないであろう」といい、ふくいが主張したのは、「視覚障害者は」「なんでもかんでも漢字で処理しなければならないという思い込みを捨てること」だった(50ページ)。


 しかし、日本社会の多数派が「レポートや文書を提出する時に通常の漢字仮名まじり文である方が良いに決っている」と かんがえつづけるのであれば、「視覚障害者はなんでもかんでも漢字で処理しなければならないという思い込みを捨て」るべきではないということになる。


 結局のところ、「わたしたち」の「いうことを ききなさい」というはなしではないか。排他的な「わたしたち」の おもいどおりということ。


 そんな はなしは おかしい。ゆるせない。「思い込みを捨て」るべきなのは、「わたしたち」のほうだ。そういって、排他的な「わたしたち」が実質的に社会的排除を やめる。


 そうしなければ、いつまでも、たくさんのひとに であえないまま一生を すごすことになる。たくさんの おもいを うけとめないまま、「排他的な わたしたち」で いつづけることになる。


 わたしは、それが いやなのだ。


 社会全体のシステムを どのように設計するのが いいか。それを かんがえるなら、複数の日本語表記が共存することが必要になる。文字と背景の色を自分で きめたり、文字のおおきさやフォントを 自分で えらぶ。みみで きくか、めで よむのかを えらぶ。わかちがきするかどうかを えらぶ。漢字を ひらがなに かえるか、ふりがなにするか。


 これは、文字の問題に とどまらないことだ。だから、


 そして、めざすところは、

ということになる。


 「識字のユニバーサルデザインにむけて」で わたしが提示した結論に同意してくださる ひとは、たくさん いるはずです。けれども、その結論だけが たいせつだとは おもわないのです。


 出発点は、漢字を にがてとする ひとにたいして「レポートや文書を提出する時に通常の漢字仮名まじり文である方が良いに決っている」と主張するのは おかしいという問題意識であってほしいのです。



 結論に たどりつくまでには、いろいろと なやみます。いっしょに かんがえませんか。いっしょに なやみませんか。


 わたしは、いっしょに なやむということが とっても だいじだと おもうのです。ひとりでするのでもなく、まかせるのでもなく、いっしょに。ほんとうの意味で、「みんなと いっしょに」。


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