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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

バトラー『ジェンダー・トラブル』。

 参加してきました。読書会って、たのしいですねー。ひさびさに、いい刺激を いただきました。とりあげたのはバトラーの『ジェンダー・トラブル』。一時期わたしも おかやまで研究会に参加していましたが、そのときもバトラーについて議論したのでした。ですので、『ジェンダー・トラブル』やジェンダーについては、なにかと関心がありますし、これまで あれこれ かいてきました。


 分類することの問題については、つぎの記事を よんでください。


 こどもって なに? いつもいつも必要な概念? おとなより こどもを かるくあつかおうとしていませんか? 性別欄を あらゆる書類に のせているのは、ばからしくありません? 性別欄は そのほとんどが廃止できるはずですよ。どうしても性別欄を もうけるなら、工夫が必要なはずです。人間ってカテゴリーは、なんのためにあるの? 動物を 人間と区別して、なにが したいの? なんで、「なんとか じん」「なんとか みんぞく」「なんとか ぞく」っていうふうに、「じん(人)」「みんぞく(みんぞく)」「ぞく(族)」で人間を 序列化するの? なんで? なんで? なんで?!!!



 さて、自然というものについて、わたしは読書会で つぎのように説明しました。


 たとえば、わたしが いまここで いきなり机を ひっくりかえして、この広告の紙を ぶちまけたとしますよね。そうすると、それが「自然ではない」「非自然な」行為として認識されて、事後的に「自然」が「それ以前」として意識されるようになります。
 具体的な行為、人為が、自然を「それ以前」として つくりあげる。そして、それが やがて定着して、空気のように定着する。そしてまた、あたらしい人為が くわわって、もう一度、それ以前として自然が認識されることになる。ここで、もうひとつまえの「自然」は、わすれられてしまう。なぜなら、「自然」が更新されて、それよりまえの「自然」が わすれられてしまうからです。


 うえのはなしは、つぎの記事に かいたことです。


アプリオリに「自然」は存在するか」。


自然という名づけが言語によるものである以上、自然は人間(言語)によって構築されるものである。ガーゲンが指摘しているように、「何かは、単にそこにあ」るのだ(『あなたへの社会構成主義』328ページ)。それがなんであるかを言語化するプロセスにおいて、「それ」は言説の世界へとくみこまれていくのである。


人間界と自然界はアプリオリに存在するものではない。人間なくして自然はないのである。自然がまず事前に存在して、それからそこに人間の介入がくわえられるのではない。人間の みなし、フィルター、言語、介入、人為…表現はなんでもよい、それら人間の具体的な行為によってこそ、そのたびに事後的に「それ以前」として自然が構築されるのである。


つまり、はたらきかけ(人為)が事後的にそれ以前(自然)を構築するのであり、アプリオリに自然は存在しえない。自然はたえず構築されつつあるものであり、更新されつづけるものである。それゆえ、それ以前の人為が忘却されていく。そうしたことから、あらたな人為が意識されるとき「それ以前」が自然とみなされることがあるのである。


忘却されるのは、更新されたら「それ以前」がみえなくなるためであり、たとえば、グーグルのキャッシュのキャッシュのキャッシュのキャッシュ…によってウェブ・アーカイブができあがるわけではなく、キャッシュが更新されるごとに、それ以前は消去される。消去が忘却をひきおこすのはとくに不思議なことではない。

 
 わたしは なんでもない。だけど、なにかではある。けれども、それが なにであるのかを 説明するのを 拒否する。わたしは なんでもない。だけど、なにかではある。


 「おまえは だれだ」。その といかけが、だれにたいして むけられているのか。だれが説明を 要求されているのか。
 なにであれ、ことばにすることは むずかしいものです。なにごとも、ことばで説明しつせることなどありません。ことばの限界に とまどいながらも、あくせくして説明しようとする。それは ものすごく しんどいことです。


 それを はっきりと自覚し、観客席にいる ひとたちの特権を、あきらかにすること。それが わたしの課題でありますし、これからも何度も くりかえし、といなおしていくべき問題だと おもっています。


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