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『あなたへの社会構成主義』

社会心理学者の長谷川 芳典(はせがわ・よしのり)さんがじぶん更新日記で、ケネス・ガーゲンの『あなたへの社会構成主義』(ナカニシア出版)での解説を 要約されているので紹介しておきます。

  1. 社会構成主義は、「何が存在するのか」「何が事実か」を決めてしまおうとしているのではないのです。何かは、単にそこにあります。ところが、何があるのか、何が客観的な事実なのかを明確に述べようとし始めた瞬間、私たちはある言説の世界、したがってある伝統、生き方、価値観へと入りこんでいきます。
  2. 「目の前に」現実の世界があるかないかを問うことでさえ、心(頭)の内側にある主観的な世界と外側のどこかにある客観的な世界を分けようとする、二元論という西洋の伝統的な形而上学を前提としているのです。
  3. 「事実」についてのある説明を固く信じている時、私たちは、他の可能性に対して自らを閉ざしてしまっています。この意味で、私たちにとって最も明白なものこそが、実は最も限定されたものであるといえます。
  4. あらゆる人間の行為を「物質的なもの」に還元すれば、それらは平板で無味乾燥なものになってしまいます。神秘的で深い意味をもつ言説をすべて捨て去ることを、私たちは心から望んでいるのでしょうか。
  5. 言い換えると、私たちは、「現実」何が事実か、何が本当に起こったことか-----に言及する時、しばしば対話のチャンスを閉ざしているのです。「現実」についての言明は、そこで会話をストップさせ、他の人々が発言する機会やその内容を制限することになります。
  6. 私たちは「事実」や「現実」に訴えて議論を終わらせようとすることに対して、常に慎重でなければならないのです。

これらは、社会構成主義に たいする反論「だって、確かに世界はそこにあるじゃないか」への反論です。


「他の可能性」や「対話」を たいせつにしているところが共感できます。


ガーゲンは、つぎのように いっています。


大切なのは、多様な価値があることを問題にするのではなく、価値の対立が広がっている世界においてうまくやっていくにはどうすればよいかを考えることです。
(343ページ)


『あなたへの社会構成主義』は、引用しはじめると きりがないほど すてきなフレーズで あふれているので、これだけ紹介します。


わたしの「相対主義について」という記事の ブックマークコメントで、NOV1975さんに「主意はわかるんだけど、例えばその「セクハラ」という価値観はどこから持ち込まれたのだろうかとか考えちゃうなあ。ある価値観をもって批判をすることを一方的に是とするのは相対主義?それとも?」というコメントをもらいました。


わたしは、相対主義という超越的な たちばは ありえないというはなしを「相対主義について」に かきました。

「ある価値観をもって」というのは、さけようが ないことです。だれにとっても。それこそ、相対主義という超越的な たちばは ありえないからです。そして、わたしたちは さまざまな価値観が共存する世界を いきています。だから、批判し、反論し、議論を つづけるというのは、現に この世界で おこっていること、おこりつつあることです。社会は、そういうものなのです。


社会構成主義は、しばしば 相対主義と おなじであると理解されていますが、そうでは ないんですね。ちかいところは あると おもいます。けど、完全に おなじではない。

このNOV1975さんのコメントで すてきなところは、「考えちゃうなあ」というところです。

わたしは、「考えちゃう」のが だいじだと おもいます。社会構成主義は、「これが こたえだ」とは いいません。ガーゲンも、「この本は、始まりであって、決して「最終的な結論」ではないのです」と のべています(i、プロローグより)。


だれが なにを 主張しようとも、それは「最終的な結論」には なりえません。もしかすると その主張は、その文脈、その瞬間にしか意味を もちえないかもしれません。けれども、それで いいじゃないですか。


真理と いわれるようなものは、さがしもとめるものでは あっても、けっして、「そこに あるもの」では ないのです。それで、いいのでは ないでしょうか。

たいせつなことは、「これで いいじゃないか」、「このままで いいじゃないか」という固定的な主張に 疑問を さしこみ、対話を ひらいていくことです。