hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

相対主義について

わたしは、相対主義が有効なときと、そうでないときが あるように おもう。


言語相対主義や文化相対主義という理念は、それが理念であることが重要です。つまり、ある言語や文化だけが重視されている現状があり、それにたいする対抗理念として、言語や文化に優劣は存在しないと主張しているのです。この理念を あたまから否定することは、むずかしいのでは ないでしょうか。


ただ、言語や文化に優劣は存在せず、どれもが ひとしく価値を もつならば、「なんでもあり」になってしまいます。つまり、暴力的な言語や文化さえ肯定してしまうのか?という疑問を さそいこむのです。


ここには、ある誤解が あります。文化相対主義が、ある文化と ある文化のあいだで相互批判したり議論するのを 禁止しているかのように みなしているからです。

ある文化が ある文化を 支配し、おさえこんでは なりません。けれども、批判したり、議論したりするのは、おおいに けっこうな はずです。


「食文化とタブー、文化って なんだ」という記事で、『犬肉をくおうが くわまいが?-相対主義のまちがい』イム・ジョンシク、2002年、ロデムナムという本を 紹介したことがあります。この本でイムさんは、つぎのように論じています。


文化相対主義は「フランス人は犬をたべない反面、中国人と韓国人は犬をたべる」というように文化の多様性を記述する 記述的な性格をもっている。しかし文化相対主義に依存して われわれの犬食文化を擁護しようとする ひとたちは もう一歩すすんで「ほかの社会集団の慣習について批判するのは まちがっている」、あるいは「ほかの社会集団の慣習には沈黙するべきだ」と主張していることに注目しなければならない。
そうなんです。議論は議論として あっていいはずなのに、「沈黙するべきだ」とまで主張してしまうことがある。これは おかしい。


「イヌを たべても いいじゃないか」と いうひとは、日本にも いますね。けど、『受取人不明』というキム・ギドク監督の映画を みても、おんなじことを いうひとが いるでしょうか。


一般的に、韓国でイヌを たべるとき、イヌは ただ ころされて調理されるのではありません。木に つるされて、バットのような棒で、なぐりたおされるのです。そのほうが おいしくなるからという理由です。

そして、韓国でイヌといえば、「韓国のバイアグラ」と いわれています。つまり、精力を つける たべものだということです。だから、おじさんたちが よろこんで たべるのです。そして、韓国の女性のなかには、イヌを たべることを きらうひとも、たくさんいます。そうした現状のなかで、職場のバーベキューなどで イヌをたべるのは、あきらかに「環境セクハラ」です。もっとも、全員が すきこのんで イヌを たべるなら環境セクハラには なりませんけれども。そうではないから問題なのです。

こうした現実を 批判するのは、それが だれで あろうと、まったく問題ないはずです。


ただ、ひとつ注意する必要のある点があります。けして、一方的で超越的な たちばからの批判であっては ならないということです。

なにごとであれ、文化に批判が むけられるとき、神様やろうな位置から批判することが、ほとんどではないでしょうか。それが問題です。


たしかに、相対主義という たちばは現実には ありえません。それは、ガーゲンが『あなたへの社会構成主義』で説明しているとおりです。ガーゲンは つぎのように説明しています。


…確かに社会構成主義相対主義的であるといえます。いかなる立場も、それ自体からすれば正当性をもつはずだと考えるからです。しかし、だからといって社会構成主義相対主義を支持しているというわけではありません。そもそも相対主義という立場はありえません。いかなる価値観も支持することなく、競合するさまざまな声のもつメリットを比較して優劣を決めることのできるような、超越した立場は存在しないのです。
(340ページ)


一方的で、超越的な立場からの批判は やめたいと おもいます。そうなってしまえば、相対主義は、「神様やろう主義」に なってしまいます。そのとき、すでに相対主義の理念は、死んでしまっているのです。「悪意ある相対主義」は、だれかにとって都合のいいことしか いいません。そんな相対主義なら、いらないのです。