hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

だれが「菜食主義」と名づけるのか。

 「菜食主義」という表現に ひさしぶりに接して、苦笑してしまいました。いやあ、わたしは ほんとに菜食主義というフレーズが きらいなんですね。


 菜食主義といえるかもしれないのは、ビーガン(vegan)の ひとたちですよね。16才のころの わたし。ビーガニズム(veganism)=菜食主義とは いえるでしょう。けども、菜食主義というのは やっぱり いやで、脱肉食や非肉食主義などと表現したい。


 菜食主義って、どう かんがえても自称するための表現じゃないですよ。たんに菜食なら ともかく。



「わたしは菜食主義者よ。あなたは肉食主義者ね。」


 わらえませんか?


 それにしても、「肉食主義」。どうですか。あなたは肉食主義ですか。もっといえば、肉食至上主義ですか。


 いまの日本では肉食は制度化されています。それが当然のものとされています。ですから、現代日本は肉食主義社会と いって かまわないはずです。強制肉食社会と いっても いいでしょう。けれども、肉食を 当然だと みなす ひとは、自分たちが つくりあげている社会に疑問を 感じない。肉食は空気だということです。おいしい空気と いっても いいでしょう。


 たとえば、喫煙者にとって、たばこは おいしい空気です。おなじように、肉食者にとって肉食は おいしい「空気」です。疑問を 感じることのない、あたりまえのものです。


 では、たばこを すわない ひとにとって、たばこの けむりは、どのように感じられるでしょうか。ひとそれぞれですね。けれども、分煙ということが提案され、支持されてきた。それは、たばこを すわないひとにとって、たばこの けむりは おいしい空気ではないからです。おいしくないからです。


 肉食は どうでしょうか。分食(ぶんしょく)は すすんでいるでしょうか。そんなことはありません。外食を してみてください。ベジタリアンむけのメニューなど ほとんどありません。ビーガンはベジタリアンの ごく一部ですが、たしかに存在するのでビーガンを 基準にしたほうが適切です。ビーガンのためのメニューは ほとんどないのです。
 まったくもって、肉食主義じゃないですか。いまの日本社会は。


 それにもかかわらず、自分たちには名前をつけずに、少数派だけに「菜食主義」と名づける。


 ベジタリアンを 自称する ひとは たくさんいますが、菜食主義者を 自称するひとは、それほど いません。すくなくとも、わたしは菜食主義者だなんて自分で いいたくない。だって、そうやって表現することで かくされてしまうものがあるってことを、ちゃんと しっているからです。菜食主義者ではない ひとの名前は、いったい なんですか。おしえてください。


 いっておきますけど、たとえば飲み会で「わたしは肉食主義者です」と「おことわり」を いわないですむ、あるいは、カミングアウトするか なやむ必要がないというだけで、そのひとは すでに特権を たのしんでいるのです。



 ベジタリアンに菜食主義という名前を つけ、そして、それを ものすごく おかしなものとして意味づける多数派が いるかぎり、ベジタリアンは「カミングアウト」するかどうかを まよいつづけることになります。そして、どうしてベジタリアンなのか、いちいち説明するかどうか、まようことになります。


 くだらない。



 「どうして肉を たべるんですか。」 その質問に こたえる ことばを みつけるまでは、「どうして肉を たべないんですか。」という質問を だれかに なげかけないでくださいよ。



 空気。ああ、空気とは いかがわしいものです。あたりまえだと感じているものにこそ、抑圧が かくされています。まったくもって無自覚の抑圧が。


 少数派には名前がある。多数派には名前がない。少数派はカミングアウトするしないの選択を せまられる。多数派は、そんな なやみを しらずに、アイデンティティからの自由を たのしんでいる。肉食主義は無色透明で、ベジタリアンを「菜食主義」と名づけ、イロモノあつかい。これが権力というものです。


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