hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「社会参加」と「社会的排除」。

 社会参加は、社会的排除の反対語。そういう とらえかたで、ほんとうに いいんだろうか。


 マイノリティの社会参加を すすめるというのと、社会的排除を やめる、あらためる、あるいは 社会的排除を 批判するというのとでは、やっぱり意味あいが ちがってくると おもう。


 不公正、不公平が まずあって、それに対して、対策を たてる。改善する。なくす。たとえば、バリアフリーというのは そういう概念。


 たとえば、障害者の社会参加というような表現は、それは すばらしい ことば、大事な理念であるようでいて、じつは、そこには ある種の いやらしさが あるように感じる。排除してきた これまでの歴史があって、それを 改善する、やめるということであるはずなのに、「仲間に いれてあげる」というようなパターナリズムが そこには あるんじゃないか。ふくんでしまってるんじゃないか。それって、ぬすっとたけだけしいことなんじゃないか。


 そもそも「社会って なんやねん」と、くりかえし 問いつづける必要が あるんじゃないか。


 おなじ意味で、多言語化/多言語主義というのと、単一言語主義を 批判するというのは、おなじではないと おもう。わたしは、「単一言語主義を 批判する」というスタンスを とりたい。そこには それなりの意味があると おもっている。「単一言語主義を 批判する」というとき、そこには「ひとつのことば」って、いったい なに?という問いも ふくまれるものであるし、その問いを ふまえない「多言語主義」というのは、矛盾を かかえることになると おもう。


 以上、ただのメモがきですが…。最近というか、この数年、感じていることです。



うえのような問題意識は、以下の本が したじきにあります。


あと、これまで このブログに かいてきたことでもあります。