社会参加は、社会的排除の反対語。そういう とらえかたで、ほんとうに いいんだろうか。
マイノリティの社会参加を すすめるというのと、社会的排除を やめる、あらためる、あるいは 社会的排除を 批判するというのとでは、やっぱり意味あいが ちがってくると おもう。
不公正、不公平が まずあって、それに対して、対策を たてる。改善する。なくす。たとえば、バリアフリーというのは そういう概念。
たとえば、障害者の社会参加というような表現は、それは すばらしい ことば、大事な理念であるようでいて、じつは、そこには ある種の いやらしさが あるように感じる。排除してきた これまでの歴史があって、それを 改善する、やめるということであるはずなのに、「仲間に いれてあげる」というようなパターナリズムが そこには あるんじゃないか。ふくんでしまってるんじゃないか。それって、ぬすっとたけだけしいことなんじゃないか。
そもそも「社会って なんやねん」と、くりかえし 問いつづける必要が あるんじゃないか。
おなじ意味で、多言語化/多言語主義というのと、単一言語主義を 批判するというのは、おなじではないと おもう。わたしは、「単一言語主義を 批判する」というスタンスを とりたい。そこには それなりの意味があると おもっている。「単一言語主義を 批判する」というとき、そこには「ひとつのことば」って、いったい なに?という問いも ふくまれるものであるし、その問いを ふまえない「多言語主義」というのは、矛盾を かかえることになると おもう。
以上、ただのメモがきですが…。最近というか、この数年、感じていることです。
うえのような問題意識は、以下の本が したじきにあります。
- 田中克彦(たなか・かつひこ)『ことばと国家』岩波新書
- 『ことばと社会』3号(特集 単一言語支配)
- 星加良司(ほしか・りょうじ)『障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて』生活書院
- 砂野幸稔(すなの・ゆきとし)編『多言語主義再考』三元社
あと、これまで このブログに かいてきたことでもあります。