hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ただしい理念と 現場のジレンマ。

 きょうは ある専門家の おはなしを ききました。おわったあとに、おはなしすることにした。


 わかってくださると信じて、対面して なやみを うちあけた。ほとんど すべて、わたしが期待したとおりのことを おっしゃってくださった。ただひとつ、わたしが気づいていなかった点を つかれた。はなしを はじめて すぐに、つっこまれた。状況を はなすと 理解してくださったが、けれども、おっしゃった点は、わたしも じゅうぶん意識してきたつもりだった。けれども、わすれてしまっていた。


 どこかに、おもいが通じる ひとが いるということは、ほんとうに ありがたいことだ。うちあければ、すっと こちらの事情やジレンマを くみとりつつ、けれども、ただしい理念を かたってくださる。ほっとする。


 ただしいことって おそろしいものです。それが自分が きめたものであっても、だれかが きめたものであっても、「ただしいとされているもの」であっても。

 ただしいこと。それは、おそろしいものです。それでも、いいつづけなくては いけない。ただしい理念を いってくださる ひとが いるということは、現場に いる ひとにとっても、とても すくわれることだと 感じた。ただしい理念は、なにも 現場のジレンマを こじらせるだけでは、けっしてない。むしろ、すくいあげることだって できるのだ。すごいことだ。


 わたしは、たくさんの「現場」に 身を おいていない。みなさんも、そうでしょう。ひとの数だけ 現場の くるしみが あり、ジレンマが ある。ジレンマの数は かぞえきれないほどでしょう。


 うちあけることも できず、どうすれば いいかも わからず、途方にくれている ひとが たくさん いるはずです。


 ただしいこと、理念を かたりましょう。それは、わたしたちが すくわれるためです。現実から めを そむけずに いられるようになるためです。理念を かたり、ひとを ゆさぶり、社会を かえていきましょう。


 わたしは、わたしの理念によって たくさんの ひとを きずつけてきたかもしれません。くるしい おもいを させたことが あるのかもしれません。たぶん、そうなのだと おもいます。ジレンマの ただなかに いる ひとを、さらに くるしくさせてしまう。それは、わたしが のーてんきなぶんだけ、暴力的だと おもいます。


 それならば、なんと いえば いいでしょう。どのように理念を かたり、現場の くるしみに よりそうことが できるのでしょうか。どうすれば、わたしたちは すくわれるのでしょうか。



 たいせつなのは、ふとしたことで かいまみえたジレンマに、なにを 感じとり、そして なにを つたえることが できるかということでは ないでしょうか。はきだされた なやみを うけとめ、どのような ことばを かえすかということでは ないでしょうか。


どれだけ ただしいことをいおうと、しようと、わたしたちは みんな、悪魔の代理人をやとって いきているのよ。やりたくないことをだれかに まかせてしまっているのよ。そうやって、めをそむけていられるだけじゃない? 手をよごさずに すんでいるのよ。悪魔にならずに すんでいるのよ。


こころの平穏もまた、代理人をやとっているから たもっていられるの。


みんな わるいんだとか、そんな一般化をしようってんじゃない。ただしいひとは、ただしいひとほど、なんらかの特権的地位にいるってことをいっているの。


「みんなが めをそむけるから、わたしは現実をみるのよ」。えらいし、立派だわ。


けど、そんなの時間をもてあましてるってことでしかないのよ。あなたは それだけ自由だってことなの、人格が ひとより ご立派ってことじゃあないわ。


それならば。


なんという? どんなふうに いう? どんなふうに むきあう?


あなたが気づいたことに。あなたの意志に。


 わたしが尊敬する id:toledさんは、つぎのように かいています。


 サヨクは、責任という概念を取り戻さなくてはならない。我々は、個人的なライフスタイルの選択に「自己責任」を負っているのではない。私は全体について責任を負っているのだ。
「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」 - (元)登校拒否系


 うえの一節を、わすれないでいたいと おもいます。だから、わたしは つぎのように かいたのでした。


 責任ということ。それは、わたしは、いま いきているということ。この世界を、みんなで わけあっているということです。だれもが、かぎりある いまを いきています。はかなく、あやうい世界を ともに あゆんでいます。いのるように、それでも あせって からまわりしないように、すこしずつ、そして 革命的に かんがえていくしかないはずです。
あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。 - hituziのブログじゃがー) 


 わたしが理念を かたるのは、すくわれたいからです。けっして、現場のジレンマを さらに 悪化させるためでは ありません。けれども、もし わたしの ことばに くるしめられたなら、いってくださると うれしいです。もちろん、それを いってくださる ひとなど、ほとんど いないのかもしれません。いいにくいことかもしれません。けれども もし、わたしが だれかのジレンマに であったとしたら、なにが いえるのだろう。それは、しっかりと かんがえていきたいと おもいます。なぜって、わたしは よわいからです。


 ひとりで かかえこまないでください。自分だけを せめてしまわないでください。わかちあいましょう。ともに なやみ、ともに もだえ、いっしょに むきあっていきましょう。


 「ひびきあえる」ぶんだけ、わたしたちには希望が あります。

 わかちあうことが できたら。理念を かたりつつ、わかちあうことが できたら。ジレンマに、よりそうことが できたら。