べてるの家を ご存じですか? わりと有名ですね。
本であれば、つぎの2冊をおすすめします。
さて。きょうは『安心して絶望できる人生』生活人新書の一部を紹介します。「弱さの情報公開」という視点です。
(27ページ)
…「問題」を起こさないことよりも、相談する力を身につけることと、浦河[うらかわ]流のいい方をすると「弱さの情報公開」が、地域の中で生き抜く大切な条件となるのです。
世は「個人情報保護」の時代です。しかし、個人の持つ情報の中で秘匿[ひとく]すべき情報はごく一部で、ほとんどが地域で暮らす一人の市民の有用な生活体験として共有すべき大切な情報なのです。ですから、早くから浦河ではそこに着目して、「弱さの情報公開――困った体験、失敗の体験、苦労の体験の公開」を提唱してきました。
「弱さ」という情報は、公開されることによって、人をつなぎ、助け合いをその場にもたらします。その意味で、「弱さの情報公開」は、連携やネットワークの基本となるものなのです。それをプライバシーとして秘匿してしまうことによって、人はつながることを止め、孤立し、反面、生きづらさが増すのです。
とっても納得のいくはなしです。
いまの社会は、孤立と ゆーうつにあふれています。たくさんのひとが、あやうい毎日を いきています。いつ、どこで不安定になって絶望してしまうか、わからないような社会です。つかれが たまって、寝不足なときであれば、そのリスクは ぐんと たかまります。そして、「もう いいや」と なげやりになってしまう。「もう どうせ」と、あきらめてしまうようになる。こわいですね。
わたしは のーてんきな人間ですが、ただ、しごとの面では、いつ自爆してしまうか わかりません。やさしく、そして倫理的であることを もとめられつつも、そして、自分自身も「このようにありたい」という理念を もちつつも、いつも そうではいられない。その否定しがたい自分自身の現実とのジレンマが、ケアという感情労働の こわいところです。
いま、とても淡々と かいていますが、このはなしを もっと情緒的に、なきながら文章を かくのは、わたしにとって たやすいことです。つまり、いつでも その気になれば「ゆーうつになれる」ということです。となりあわせだとは おもいません。けれども、わたしにとって、うつになるのは かんたんなことだと おもいます。
どういうことかと いえば、それは つぎのような一連の記事で かいてきたことです。
- ふみこむ。それは こわいこと。でも、 - hituziのブログじゃがー
- あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。 - hituziのブログじゃがー
- ただしい理念と 現場のジレンマ。 - hituziのブログじゃがー
- ケーサツ権力と精神障害。 - hituziのブログじゃがー
- 『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』 - hituziのブログじゃがー
- なみだ かれることなく(「人が支え合うとはなにか」)。 - hituziのブログじゃがー
- ごまかしてきたのは自分の孤独だった。 - hituziのブログじゃがー
- わしもスターダストや(福祉労働者のために)。 - hituziのブログじゃがー
あるいは、燃え尽き症候群 - ウィキペディアを みてください。
さて。「弱さの情報公開」。
わたしが おもうのは、じゃあ わたしが、あなたが「弱さの情報公開」をするとして、どんなふうにするかということです。
どのような相手に、どのような場所で、どのようなコミュニケーションの形態で、「弱さの情報公開」をするのか。
- ともだちか。同僚か。先生か。占い師か。精神科医か。しらないひとか。
- 一対一か。3人か。グループか。
- 対面か。電話か。メールか。チャットか。それともブログなのか。自分の部屋か。職場か。カフェか。居酒屋か。
わたしが かんがえるに、そういう空間やコミュニケーションの形態は、ものすごく おおきい。居酒屋か、カフェかでも、ずいぶんと ちがう。空間がコミュニケーションを規定する側面があるということです。いろんな要素が、その場のコミュニケーションを かたちづくるということです。
もちろん、それを べてるの せんぱいたちに おそわるのも いいでしょう。たくさんの実践例が、それこそ「公開」されているのですから。
あらいざらい、こちらの「弱さ」だけを ともだちに公開してしまうと、友人関係に上下関係が うまれてしまうことがあります。こちらが公開したのは「弱さ」なのに、それが「弱み」になってしまうということです。
つまり、「相談したんだから」ということで、相手のほうが立場が上になってしまう。対等な関係のまま、相談するということも、ほんとは できるはずなのに。あるいは、「おたがいが 自分をさらけだす」というかたちの公開も、あるはずなのに。
たとえば、こどもが親に なにかを おそわるのは、けっこう しんどいことです。にげるところが ないから。距離感が ちかすぎるから。ちかすぎる関係で おしえられると、どうしても、「しんどい学習」になってしまうのです。たとえ、おしえる内容が おなじだとしても、「だれに おそわるのか」は、とても たいせつなことです。「だれでも いい」はずはないのです。
それは、「弱さの情報公開」でも、おなじではないでしょうか。
「弱さ」を さらさないひとは、それほど いないでしょう。だれだって、なんらかのかたちでアピールしているものです。ですが、距離感が ちかすぎる場合には、それが余計なノイズを ひきおこすように感じるのです。
んーっと。なにも結論も確信もないままに、おもいつくままに文章にしているのですが、どうでしょうね。わかりません。
ひとつ、いいたいことは、こたえが わかっていても、どうにもならないときがあるということです。知識だけの問題では おさまらないことが あるということです。
あなたは、どんなふうに「弱さの情報公開」をしていますか? そして、どんなふうに「弱さの情報公開」をしたいですか? だれと? 人数は? 場所は? どうしますか。
いきづらさを かかえて。不器用に。孤独。おしだまる。つかれる。―その すべてを みつめて。わかちあうことができたら。
え?(笑)。あははははは。そうかな。どうだろ。いま、なんか きこえたんだけどさ。「弱さの情報公開」まで、上手にしてしまおうってのは、わたしの「弱さ」であり、「強がり」だと。
「弱さの情報公開」に、じょうずも へたもない。いいも わるいも ない。ただ、あなたの孤独が ここにあって、それを ひらくの。そういうものなの。
―そういうものでしょうか?(笑)。えへ。