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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

『境界線の政治学』メモ。

 わたしの問題意識は、なにを どうするにしても、線ひきは おこなわれるし、そこで排除は おこっている(排除している)、その現実を わすれてはいけないというのが まず前提としてあります。そして、それを ふまえて 自分は どうありたいのかということです。


 「自分は いいことをしているから いいやつだ」。ほんとうに そうだろうか。

あなたは きれいな手をしているわ。けど、だから なんだって いうのよ。あらまあ、あなたは そんなに こぎれいにいるけど、そんなの なんだってないのよ。


ふみこむってことは、まじわるってことは、意図せぬ暴力をともなうものなの。暴力ってことばが つよすぎるなら、ちょっとした あやまちといっても いいわ。


どれだけ ただしいことをいおうと、しようと、わたしたちは みんな、悪魔の代理人をやとって いきているのよ。やりたくないことをだれかに まかせてしまっているのよ。そうやって、めをそむけていられるだけじゃない? 手をよごさずに すんでいるのよ。悪魔にならずに すんでいるのよ。


こころの平穏もまた、代理人をやとっているから たもっていられるの。


みんな わるいんだとか、そんな一般化をしようってんじゃない。ただしいひとは、ただしいひとほど、なんらかの特権的地位にいるってことをいっているの。


「みんなが めをそむけるから、わたしは現実をみるのよ」。えらいし、立派だわ。


けど、そんなの時間をもてあましてるってことでしかないのよ。あなたは それだけ自由だってことなの、人格が ひとより ご立派ってことじゃあないわ。


それならば。


なんという? どんなふうに いう? どんなふうに むきあう?


あなたが気づいたことに。あなたの意志に。


わたしが こんなふうに いうのは、別に うえから目線で説教をたれるためじゃない。方法を、やりかたをかんがえましょうって はなし。ふみこまないぶんだけ、ただしく いられるってことをふまえておこうってはなし。

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 なにかをして、だから わたしは いいかんじ。そんなふうに感じることは あるでしょう。あるけれども、一方で わすれてはいけないことも あるはず。


 杉田敦(すぎた・あつし)は『境界線の政治学』の後半でつぎのように論じている。

 さらに考えをめぐらせば、そもそも我々は、線を引くことなしに何かを言ったりしたりできるのだろうか。白紙の上に何かを記す。そのことによってすでに、われわれは、さまざまな可能性を排除している。何かを選ぶことは、何かを断念することである。そうした観点からすれば、われわれが生きていることそのものが、恣意性の発現にほかならないということにもなる。

(175-176ページ)

 性急に行動を説く人々とは異なり、われわれは、できるかぎり論じ続けたい。しかし、それでもなお、いつかは何かをすることになる。参加する人々の範囲にも、自ずと限界はある。何をしようとも、何らかの課題が残され、新たな問題が生じるだろう。われわれに最低限求められるのは、自らの引く境界線が排除しているものが何かを、見つめ続けることではないだろうか。

(178ページ)


 わたしたちは、現に なにかを えらんでいる。それが現実だ。それを どうにかしたいと感じて、なにかをする。それもまた、なにかを えらぶということだ。それを 自覚してもなお、なにかを えらぶことはある。むしろ、わたしは えらびたい。


 ということで、今後 しばらくのあいだ 原発問題や入管問題について論じます。


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