hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「おしつけるな」論法

 なんでも いいけど、「おしつけるなよ」。よく みられる反応です。これほど便利な反論は ありません。なにか議論している ひとがいて、なにかを 提案している。その中身を 検討することなく、ただ、「おしつけるな」といえば、議論は おわってしまいます。


 「意見を わたしに おしつけている」。「おしつけるのは わるいことだ」。「だから、おまえは まちがっている」。


 どうでしょうか。こうなってしまえば、もはや提案したひとの「人格の問題」に なってしまいます。「おしつけている!」に とどまらず、「ファシズムだ」と名づけるならば、どうでしょう。おそろしや。「全体主義者」の登場です。恐怖政治が はじまってしまいます。オーウェルの「1984年」みたいです。………。


 ちょっと まってください!


 そこまで連想を ひろげていくのは、あまりに「はやとちり」です。相手の すがたを よーく みてください。そのひとが提案していることに、どれほど たくさんの ひとが 賛同しているのですか? そこが肝心です。ファシズムというものは、「どのような主張であるか」という内容の問題以前に、「どれほど支持されているのか」という権力の問題であるはずです。「権力なしのファシズム」って、なんですか。


 すくない ひとが いくら がんばってみても、ファシズムには なりえません。「ふつう」の顔を して、さも これが当然であるかのように、社会を 支配している空気! それこそ、ファシズムの名に ふさわしいのではないでしょうか。


 そうです! おもいだしました!


 それを、韓国では「日常的ファシズム」というのです。雑誌『当代批評』で はじまった議論だったと おもいます。いや、もちろん空気のようなもの すべてが「ファシズム」だと いっても しかた ありません。空気のように あたりまえの顔を しつつ、すくなくない社会的弱者を 抑圧しているものこそ、日常的ファシズムと よばれたのです。内容は、よく おぼえていませんが、『わたしたちのなかのファシズム』(図書出版サミン)という本を、よんでみてください。


 はやとちりすることで、「おお、これはファシズムだ、全体主義だ、こわい こわい」。そんなふうに相手の議論を 否定するのは かんたんなことです。けれども、どちらの議論が社会の多数派を しめているのか。それを、きちんと おさえる必要があります。

 「おしつけるな」で かたづけるのは、ちょっと やめてほしいですっ!


……………。ええっと…。なんでしょうか。きょうの わたしのキャラ設定は。自分でも、よく わかりません! いひっ。