hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ひとの数だけ可能性がある。

人間として、あたりまえのこと(アセクシュアルについて)。 - hituziのブログじゃがー


うえの記事にたいして、興味ぶかいコメントをいただきました(はてなブックマーク - 人間として、あたりまえのこと(アセクシュアルについて)。 - hituziのブログじゃがー)。


2008年07月24日 id:kanimaster [sex] 「あたりまえのこと」ではないと思うんですよ。当たり前でないことを人間同士が、また社会がどう受け止めていくかが問題なのだと思います。別のマイノリティの一人として。
人間のありかたを認識するさいに、ふたとおりのアプローチがあるでしょう。


ひとつは、「ふつう」というものを設定するアプローチです。「ふつう」な人間なるものを設定し、その「ふつう」という概念から はずれた「当たり前でないこと」を、どのように うけとめるかという問題設定です。これも、社会のシステムを検討するうえで、重要なアプローチだろうと おもいます。


もうひとつは、「これも それも あたりまえである」というアプローチです。現実の人間を たーーーくさん みてみましょう。すると、人間の価値観や行動様式、すがた かたちは、ものすごく多種多様であることに気づかされます。

それを「現実として」うけとめるならば、そもそも、なにが 「ふつう」であるかという問題設定は できなくなります。ただ、現実として うけとめる、うけいれるアプローチです。


id:kanimasterカニマスター)さんは、「「これ」が あたりまえであるなら、「それ」は あたりまえではないことになる」というふうに解釈されたのでしょう。ですが、わたしが なにかを「あたりまえ」というとき、排他的な意味で そういっているわけではありません。

たとえば、わたしが いっているのは、セックスが すきなひとが いるように、セックスしたくないという ひともいる、ということです。だれかを すきになることはあるけれど、性的には欲求をもたない ひともいる。だれも すきにならない ひともいる。つまり、いろんな ひとたちが存在するということです。

それこそ、「あたりまえ」な はなしです。「そんなの あたりまえじゃないか」と いわれたら、「はい そうですね」と こたえるしかありません。


問題は、なぜか わたしたちは自分の感覚を基準にして、だれかに評価を くだしてしまうということです。なぜか、いつのまにか、わたしたちは 神様のような存在になってしまっているのです。わたしたちは、自分の感覚を「絶対的な価値の基準」にしてしまうことが、よくあります。そして、だれかに点数を つけてしまっているのです。


もちろん、自分の感覚から自由になることなど、だれにも できません。それならば、ひとの数だけ存在する人間の可能性を うけいれるということは、ほとんど無理なことなのでしょうか。

それと これとは、べつの はなしのような気がします。

「ただ現実を うけとめる」ということは、できることだと おもいます。ひとが なにかを判断するとき、それまでの人生のなかで つみあげられてきた経験をもとに、さまざまなことを かんがえています。その経験は、いつまでも更新され、うわがき されつづけるものです。

それが、どうしても固定されてしまうということが、あるのかもしれませんし、ないのかもしれません。ひとの価値観は、どのように固定されているのでしょうか。ほんとうは、うわがき できるのにも かかわらず、自分の都合によって それ以上 うわがき しないようにしてしまうことも、あるのかもしれません。

教育の影響力も、あるのかもしれません。一般的に想定されているほどには、教育のちからというものは、ないのかもしれません。「一般的って なあに?」と いわれると、よく わかりませんけどね。


また、海野秀之(うんのひでゆき)さんが興味ぶかいコメントを くださいました(「多数派」 - uDiary (2008-07-22))。


異性愛者である自分が、自分のことを「ふつう」と思ってしまっているのも事実です。ここを変えようとするのは、コストが高くて非効率かなぁなんてことも考えられると思います。

まったくそれと同じように、同性愛者も自身のことを普通だと思っているだろうと想像する力が必要なんじゃないか。

自分がいかに自分のことを「ふつう」を思い込んでいるのかを知っているのであれば、自分以外のひとが(たとえば同性愛者が)同様の「ふつう」を持っているであろうことも想像できなければならないんだろうなぁ。
わたしが かいた「こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か。」は、「そもそも異性愛って なんだろう」ということでした。異性愛について、一度 かんがえなおしてみませんか。そのように問題提起したものです。いろいろと かんがえなおして、「異性愛者である自分が、自分のことを「ふつう」と」感じたのであれば、それは それで いいと おもいます。そして、「自分以外のひとが(たとえば同性愛者が)同様の「ふつう」を持っているであろうこと」を想像できるようになることも、たいせつなことだと おもいます。


海野(うんの)さんのコメントは、「ひとの数だけ「ふつう」がある」ということだと おもいます。その視点にたてば、「自分の ふつうだけ」を絶対視することは できなくなります。現実を ただ うけとめることが、できるようになります。

よく いわれるように、想像力は たいせつなものです。

もし、自分の「ふつう」が周囲の ひとたちに、全否定されてしまえば、どのように感じるだろうか。それって、けっこう しんどいですよね。それと おなじことを、ほかのひとにも適用して、想像力を はたらかす必要があるということでしょう。


ものすごく まとまらない文章になりました。きょうは たくさん仕事をしたので、ゆるしてください(笑)。