hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

わたしたちは、わたしも あなたもフェミニズムの当事者だ。

 ちょっと なつかしい。

反ベジタリアニズムの思想の もちぬしが、ベジタリアンを限定形容詞にしてしまうのだ。なぜか。そうすることによって、ベジタリアニズムを他人ごとにしたいからです。にげたいからです。自分から、きりはなしたいからです。自分とは関係のないことにしたいからです。



きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。


きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。



そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。


 きょうは、「フェミニズムは、みんなのものだ」というはなしです。


 ええと、いつもながら あたりまえのことを かきます。


 性差別に反対するということは、なにもフェミニズムなどと なづけるまでもなく、当然のことだ。女性だからといって正職員に採用されない。それは、おかしい。女性だからといって、お茶くみを命令される。それは、おかしい。身勝手に役割を 期待され、いいように つかわれる。そんなのは、いやだ。


 それって、あたりまえの感覚だ。フェミニズムなどというまでもない。


 フェミニストを 自覚し、性差別を なくすために活動する。たいせつなことです。性差別が いまだに のこっているのだから、フェミニズムは、とっても たいせつなもの。



 今回、わたしが問題にしたいのはフェミニストについてではない。「フェミニズムを とおざける態度」についてだ。


 「フェミニストは、ああだこうだ」という議論。いっている ひとは、「自分とは関係のない」ものとして「フェミニスト」を あつかっている。「ああだこうだ」ということで、自分はフェミニストではないというメッセージを おくっている。そして、フェミニズムを 色めがねで とらえ、自分とは きりはなす。

「わたしはフェミニストではない。性差別に興味はないし、うるさく いわれたくはない。」

 そのような態度を とる ひとがいる。


 いまだに性差別を 再生産する 社会を、わたしたちは いきている。それならば、フェミニズムは みんなのものだ。もちろん、たちばには ちがいがある。だれかを 差別したり、「オトコ」を 優位な たちばに おく側が、性差別を うみだしている。フェミニズムによって批判される側だ。いまやフェミニズムの課題は、たくさんある。たんにオトコがオンナを差別しているという問題に とどまらない。異性愛を 標準とし、それを 制度化しているということ。それもまた、フェミニズムの課題だ。


 フェミニズムを 敵視する ひとがいる。それは、自分の たちばが 「おびやかされる」と感じるからだ。けれどもそれは、自分たちを 優位に おいてきたからだ。既得権益を まもるために、フェミニズムを 拒否する。そういった態度は、ある意味で フェミニズムを きちんと理解している。ただ、うけいれないというだけだ。
 一方、「わたしはフェミニズムに興味はない、性差別など関係ない」という態度を とる ひとは、「性差別という問題を 自分から きりはなすために、フェミニズムを 利用している」のである。


 つまり、自分のものではない、だれかのものとして、フェミニズムを きりはなす。そして、じつは そうすることによって自分の社会的な たちばや生活のありようを といなおすことなく、これまでどおりの既得権益を まもっているのだ。


 だから、「フェミニスト と そうでない ひと」という区分は、ときとして有害ですらある(わたしは、ここでフェミニストを 批判しているのではない。「フェミニストは…」といって、他人ごとのように かたるひとを 批判したいのだ)。


 フェミニズムは、みんなのものだ。さまざまな制度化された差別があり、ときには それによって得をし、そして損をする。いちがいに、加害者と被害者を 区別できるものではない。けれども、程度の差というものがある。それは数字を もちだしてみても、すぐに わかることだ。育児休暇を とるのは、妻か、夫か。それだけを とりあげてみても、女性と男性のあいだに あきらかに差別がある。政治家は、オトコばかりだ。そして、性別二元論を 批判し、戸籍制度の廃止を うったえる議論は、まだまだ すくない状態にある。
 日本では、同性の結婚は みとめられていない。それは、異性愛を 制度化し、それを 空気のように当然視し、なにも感じない ひとたちが再生産しているのだ。


 フェミニズムは、みんなのものだ。そして、いまここに さまざまな差別制度がある。構造的な差別によって、不利益を おしつけられている ひとが いる。なにくわぬ顔で生活できている ひともいる。

マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。


 これは、関係性の問題だということ。関係性の問題であるなら、「わたしはフェミニストではない」、「フェミニズムには関心がない」という言明は、いいのがれでしかない。わたしたちは、わたしも、あなたもフェミニズムの当事者なのだ。


 わたしたちは、たすけあって、ささえあって いきていくしかない。自分に できることを せずに、身勝手な期待によって役割を固定するのは ひきょうな ふるまいだ。


 わたしたちは、かぎりある資源を わけあって いきている。それならば、どのように わけあっていくのが いいか、議論し、はなしあい、同意を つくりあげていくしかない。差別があるなら、なくしていく必要がある。


  • もし、あなたが えらぶるならば、「えらそうにするな」と反発を うける。当然のことだ。
  • もし、あなたが よくばるならば、「よこどりするな」「ひとりじめするんじゃない」と批判を うける。当然のことだ。


 わたしが いいたいのは、「問題を 自分から とおざけるためにフェミニズムを 利用するな」ということだ。フェミニズムは、性にまつわる差別を なくしていくためにある。性差別を 固定するためではない。フェミニズムは、みんなのものだ。


 みんなが なかよく、不平等を こうむることなく、たのしく いきる。それは、理想論のように 感じられるかもしれない。それでも、それが めざされるのは、当然のことなのだ。当然のことを 主張して、なにが わるいというのか。冷笑して、あざわらっていて、なにが えられるというのか。


 差別を すれば、批判を うける。それが あたりまえなのだ。


 差別を すれば、批判を うける。それを、あたりまえの光景にしていかなくてはいけない。



 自分の既得権益を まもろうとして、社会的な信用を うしなう。そうなれば、はたして 自分が 得を したのか、 損を したのか わからなくなるだろう。そういった状態にしていかないといけない。おかしいものは、おかしいからだ。



 ここまでの議論を よんで、それでも自分を「フェミニズムは関係ない」と主張する ひとが いるならば、わたしは、あなたを 批判する。



 さて、わたしにとって、こういった文章を かくのは、比較的かんたんなことです。自分の位置や問題を あきらかにせず、ただ、具体的に なざしするわけでもなく、あいまいに「だれかの問題」を 「論じている」だけのことですから。


 はたして、わたしは どうなのか。こういうことは、なかなか指摘してもらえないことですから、自分で自分に指摘しておくことにします。わたしにとって、フェミニズムって なんだろうかと。


 わたしって、いいわけがましいですね! ええーん。


…、はい。フェミニズムに かぎらず、カテゴリーの問題について、よく かんがえます。


 ものごとを かえるためには、固定するのではなく、ゆさぶらなくてはいけない。それでは、どのように ゆさぶるのか。どのように主張することが 社会を よりよくすることに つながるのか。ずっと、かんがえています。こたえは わかりません。けれども、失敗しながらも できることを つづけていくつもりです。



 きのう、この文章を かいたあとに、つぎの記事を よみました。

コメント欄の「あべ」は、わたしです。


 わたしは、「はてな」というウェブ上の ひとつのコミュニティにすぎないものに埋没するほど ちっぽけな存在でありたいとは おもいません。じっさいには ちっぽけですが、自分から自分を 限定するつもりはありません。まして、ウヨクという存在に依存した「サヨク」という位置に安住したいとは おもいません。ウヨクが どうあろうとも、自分の信念を つらぬきたい。そして、「これだからサヨクは…」などという「きりはなし」/「切断」も ゆるしたくありません。
 べつにサヨクだと みなされたくないわけではありません。サヨクだと自称するのも きらいではない。けれど、だれかが「自分とは ちがう存在」として とおざけるために「サヨク」という名前を 利用するならば、そんなカテゴリーは さっさと つぶして、まきこむ戦略を かんがえていきたいのです。


 社会問題を 他人ごとにしようとする ひとが、そのための戦略として、安心するための手段として、「イロモノとしてのサヨク」というカテゴリーを でっちあげるならば、「イロモノは おまえだよ」と きりかえしたいと おもっています。


 もちろん、「あいつは サヨクだ」と いわれたなら、「そうだよ。サヨクだよ。え、あなたは ちがうんですか?」と きりかえします。よろしく おねがいします。