hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

映画『ブタがいた教室』。

 みるまえ。みたあと。


  • みるまえ。

 こどもだろうとなんだろうと、ブタいっぴき ころせない肉食者なんて くそだ。洗練されくさった都会っ子たちの感覚なんか くそくらえってもんだ。


 よし。ころせないなら、ベジタリアンになろう! ベジタリアンは たのしいぞ。ベジタリアンは なにも「禁欲の がちがちの ひと」なんかじゃないぞ。もちろん、禁欲なベジタリアンも いても いいけど。肉食に制限する生活は じっさい たのしいし、苦痛じゃないし、なんともないことなんだ。肉を たべるのを「がまんしよう」ってことじゃないんだ。肉を たべない たのしい生活を、ちょっとでも あじわってみようぜってことなんだ。一日だろうと、週末だけだろうと。毎日だろうと。自分なりのベジタリアン生活を。


 どっちみち、肉を たべるってことは 動物を ころすということ。そして、動物を ころすということは そんなに苦痛なことじゃない。わくわくすることだってあるんだ。そして、同時に、かなしいことでもあるんだ。


 動物と人間。それを 区別するのは かってなはなしだ。動物と人間を 区別しないのも、やっぱり かってなはなしだ。いろんな世界観がある。たくさんの世界観のなかで、自分の世界を いきるんだ。


 大量消費の時代に、どのように いきるか。いや、どのように いきたいのか。すべて、自分で きめることだ。はなしあっても いい。相談しても いい。いっしょに きめても いい。とにかく、えらびとるんだ。そのときそのとき、なにかを たべるときに。なにを たべるのかを。


 わたしは、なにを たべるのか。


 動物を ころすのは、たいしたことじゃない。もし、たいしたことだったら、みんなベジタリアンになってるよ! そうじゃないから たくさんのひとが 肉を たべている。「動物の いのちは、わたしが満腹になるために ぎせいにしても いい」。そのように かんがえているから 肉を たべるんだ。

  • わたしたちは、動物を ころすことが できる(だから、肉を たべている)。
  • わたしたちは、ベジタリアンになることができる(だから、ベジタリアンも たくさん いる)。


 可能性は、ひらかれている。この、かぎりある世界で。


 わたしは自由だ。この、かぎりある世界で。



 たいせつなのは、どうやったら このかぎりある世界で みんなで たすけあいながら いきていけるのかということだ。


 みんなって だれのことだろう。みんなって。



 みんなって、だれのことだろう。わたしたちって、だれのことだろう。


(ということで、いまから映画を みまーす。)


  • みたあと。


 わはは。なんだこの優柔不断な教員は。このブタを みんなで かって、さいごに たべたいと おもいますっつっといて、卒業まえになって 学生に判断させようとしてるー。いいだしっぺなのに。で、結局 さいごの さいごに教員が自分の一票を いれることで「クラスの結論」が きまるという。


 なんか、ブタどうするかで学生たちが意見が対立して、相手側を 批判したりしてた。なんで学生どうしで 「おまえのほうが ひどい」みたいなことを やりあわないといけないのでしょうね。「批判」を うけとめるのは教員であるべきでしょう。「わるもの」にされる覚悟でやりなさいよというかんじですね。


 まあ、学生たちの いろんな意見は おもしろかった。


 しょうもないと感じるのは、そのブタが死ぬところを うつしていないところ。これは撮影するべき。みんなで そだてるところだけ撮影して、トラックに のった そのあとを撮影しないというのが この映画の あまっちょろいところだ。


 観客が なに? 観客が どうしたのでしょう。「観客の よわさ」を もちだすのは ひきょうだ。「商業映画だからねえ」というのなら、そうですねえと おもいますけどね。


 この映画を みて 感動して、このブタが死ぬところがみたいと おもわない観客は ろくでなしだ。そだてるところを みて、感動して、で どうするかを なやむところで共感して、いやいや ちょっと まってください。


 映画では「食肉センター」と表現されていますが、「屠場(とじょう)」とも いいます。このブログの検索キーワードで いちばん人気が「屠場」です。それは、つぎの ふたつの記事を かいたからです。


 わたしが いいたいのは、ふたつです。

  • ベジタリアンになるのは、むずかしいことではない。
  • 屠場で しごとを している ひとが差別されるなど、ゆるされないことだ。


 ブタを 給食の残飯(ざんぱん)で そだてていましたが、ブタいっぴきを 残飯で そだてようと おもえば、ほんとうに たくさんの残飯が必要です。そして、そのブタの肉は、その大量の残飯とは比較にならないほどに すくないものです。ブタを たべるということは、ぜーたくなことだということです。ぜーたくが わるいって いいたいのじゃない。事実として、肉食は ぜーたくなんです。その ぜーたくを、みんなでしようとするとき、どこかに無理が しょうじる。それは、あたりまえのことだ。開放感あふれる環境で そだった動物を 「やすく たべたい」とか、ふざけたはなしだ。やすい肉は、動物か環境を ぎせいにする。


 わたしは みがるに いきていきたいので、肉は なるべく たべない。わたしにとって、肉食に たよらない料理は たのしいのです。


 ブタを そだてるために 残飯を ふやすということは、おかしなことだと おもいます。たべものを たいせつにするなら、残飯を ふやすべきではない。


 レストランで料理をするひとは差別されていない。けれども、レストランでも つかっている「肉」を つくる ひとたちは、差別されている。これは、おかしい。



 屠場を 撮影することがタブーになってしまうような社会は おかしいのです。



 『いのちの食べかた』というドキュメンタリーを みたら わかると おもいますが、べつに屠場の風景など、なんでもありませんよ。工場などと かわるところはありません。



 『ブタがいた教室』という映画は、議論の出発点でしかありません。そのあとが たいせつです。「そのあと」は、観客が つくれば いいのです。「映画」に依存して、映画に おしえてもらうという「受け身」になることなく、積極的に「映画を つかう」という視点が必要だと おもいます。主体は、自分にあるのですから。


 わたしは、どのように いきたいのか。それを きめるのは、この社会に いきる あなたです。ただ、あなたが きめるんじゃない。「この社会に いきる あなた」が きめるんだ。だから、この社会の ありかたで、いろいろ左右されたりもする。それは しょうがない。


 わたしたちは自由だ。けれども、「この社会」から自由になることはできない。社会の状況に左右されながらも、自分で きめたり、相談してみたり、いっしょに きめるしかないんだ。



 屠場についてのこと、ベジタリアン生活についての情報が、もっと流通するべきだ。屠場についての本、ベジタリアン生活についての本は すでに たくさんある。それを、しっかり よんでほしい。ニュースでも報道してほしい。映画にもしてほしい。ブログにも かいてほしい。



 ひさしぶりに ブログ かいたら、こんなことに!(笑)。ま、いいや。