hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

集団の とらえかた。問題の とらえかた。

 「日本人」にしても、なんにしても 人間を 集団で くくるとき、そのカテゴリーというのは ひじょうに あいまいなものである。明確に 線を ひけるものではない。けれども、なにか必要や目的があって、人間を 集団で くくることがある。たとえば、多数派と少数派という線びき。多数派であるとか、少数派であるとか、そういったカテゴリーは見いだすものであって、それぞれに 本質的な要因があるわけではない。あくまで「見立て(みたて)」である。


 日本社会のなかで、「○○的」多数派であるとか、「○○的」少数派というものを 見いだすことはできる。しかし、なんのために。どのような必要があって。
 どうだろうか。



 たとえば、異性愛者と同性愛者という構図を たてる。なんのために。その線びきから こぼれおちるものも あるはずなのに。



 どうせ見いだすなら、異性愛中心主義という見立ては どうだろうか。こういう とらえかたは、いくらでも応用が きく。そして、じっさい問題として、それは見いだすことができるものである。日常化されているから。制度化されているから。


 国民主義国家主義。日本人中心主義。日本語至上主義。健常者中心主義。優生主義。などなど。


 もちろん、その すべてにカテゴリーの 線ひき問題はある。けれども、それは サッカーのオフサイドトラップのように、動的で、恣意的なものとして とらえたら いいことだ。基準の いいかげんさも ふくめて、権力的で、抑圧的だといえるのであり、問題にしていくことができる。


 佐藤裕(さとう・ゆたか)の『差別論』(明石書店、2005年)を 応用していえば、権力というのは、だれかを 他者化し、おとしめると同時に、自分たちを 「われわれ」として たちあげる。


 無意識に だれかを 他者化することもある。たとえば、なにかを つくったときに。それが だれでも つかいやすいとは いえないものであれば、あたりまえのように それを つかう ひとと、自由に つかえない ひとの差別を つくってしまう。


 いろんな不自由に直面している ひとが いる。一方で、そういった なやみに気づくことすらない ひとも いる。そこには非対称性がある。そういう「見立て」は わたしにとっては、必要なものなのだ。現実を とらえるために。そして、ものごとを よりよくするために。


 きゅうくつさを 感じることがないこと。それは自由であるということだ。摩擦が すくないということだ。消耗しなくて すむということだ。不自由なことは なくなりはしない。いくらでも見いだすことができるからだ。しかし、特定の ひとたちに 一方的に おしつけられる不自由は、なくしたい。わたしは なくしたいと おもっている。