hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

差別について。

 差別。「差別はいけません」。「なくそう差別」。


 うーーん。どうなんでしょうね。ちょっと、小山エミ(こやま・えみ、macska)さんの解説を みてみましょう。


まず、一番大事なこと。わたしは「差別」という言葉で社会の諸制度や、それを含んだ社会システムのことを指す用法を取り、一般に「差別」と呼ばれる個別の行為や発言などは「差別的」と呼んで区別している。つまり、特定の人々に対して「不利益・不平等な扱いをすること」という行為のレベルではなく、特定の人々が「不利益・不平等な扱い」を受けるような社会のありかたを「差別」と呼び、個々の不平等な扱いは「差別的」もしくは「差別行為」として区別している。それは、「差別」とは主に社会のありかたの問題であり、個々の行為や発言などのことではないと考えているから。

 いやあ、すばらしい。そのとおりですよね。ちょっと中間の議論を とばして、つぎの部分を みていただきます。


わたしが「差別」を問題とするとき、それは偏見や先入観一般を問題としているわけではない。というより、偏見や先入観が動機となっているかどうかはこの際関係ない。社会的属性をもとに、社会構造と共鳴し循環するようなかたちで不平等な扱いをすることが「差別的」になるわけ。同じように蔑視したり不平等に扱っても、ある場合はちょっと気分を害するぐらいで済むのに、別の場合は社会生活すら困難になってしまうような、そういう社会構造のありかたこそが問題なのね。


さらに言うと、そうした社会構造上の問題がある限り、「差別行為」をしなければそれで済むという話でもない。本当に必要なのは、社会構造上の不均衡を強化するような「差別行為」を避けることではなく、本来自由であるべき「理不尽な扱い」がかくも多大なインパクトを持ってしまうような社会構造そのものを是正すること。差別行為をやめるということは、差別行為と社会制度の循環を断ち切るという点では意味のあることだと思うけれども、既に存在している社会制度そのものを変えていかなければ不十分だとしか言えない(とは言っても急には変えられないから、それまでの緊急避難的な対策としてアファーマティヴアクションみたいな考え方も出てくる)。

 小山さんは、「どこまでいっても個人の内面(もしくはその反映)の問題としてみなされがちな「差別」という問題を、社会構造の問題として扱う考え方をもっと多くの人に共有して欲しい」としています。


 これは、わたしも何度も くりかえし指摘してきたことでもあります。


 多数派が 身を おいている社会の構造というものは、自分たちだけは あたりまえのごとく配慮し、そして、「一部」(少数派)を つくりあげ、障害化し、そのうえで「特別な配慮」と称して ほどこすというものです。


 そして、うれしそうに 指摘するわけです。「それは逆差別だ」と。「ほとんどしない」、「めったに ない」、そして自分たちだけ「あたりまえのごとく配慮」してきたこと、そんなことを すべて すっかり わすれたうえで、名前の ない 多数派が、名前を もつ 少数派に、「特別な配慮」や「逆差別」を ねたんでみせるのです。ほんとうに、よくできた 手口です。


 多数派が いくら 少数派に 共感を よせたとしても、自分の おかれた社会の構造というものに自覚的にならなければ、なにも はじまらないのでは ないでしょうか。そして、多数派が 社会の ありかたを かえていくことなしに、少数派に「共感する」ことなど、できないことでは ないでしょうか。


―偏見なんてない?


 けどね。偏見なんてなくてもね。あたしたちは、「構造的差別」から のがれることは できないの。現実を かえていかないかぎりは、社会の構造が あなたの位置を きめてしまうの。それが現実というもの。


 しっかり うけとめて、つたえるべき ことばを、つたえるべき相手に ぶつけていきましょう。


 「障害者との接しかた」などというものはありません。ちがいが ある。だから とまどう。それだけのことです。問題は、ある種の「ちがい」を とおざけるように社会が設計されているということです。つまり、隔離による社会的排除です。構造的差別という視点を もたずにいたら、差別を 「意識の問題」に おしとどめてしまいます。


 さて。差別と いいますと、「○○は××だ」という「偏見に もとづく発言」が問題にされます。けれども、たいせつなのは、現実にある制度上の差別(構造的な差別)を 解消していくことです。もちろん、偏見は なくしていくべきです。けれども、意識や心の問題を 問うことで差別を解決できると おもってしまうならば、不平等な関係性が まったく みえなくなってしまいます。


 さて。それでは、つぎに やねごんさん(id:lever_building)の議論をみてみましょう。すばらしい記事なので、じっくり時間をかけて ごらんください。


 ここでは、やねごんさんの議論を おかりして、差別とはなんだろうということを、といなおしてみようと おもいます。この記事で やねごんさんは つぎのように かいています。


 それにしても どうして こういう さべつ主義者の みなさんは、さべつという 行為の せきにんを じぶんで ひきうけようとしないんだろう? 「わたしは排除したい」と いわずに、排除するのが 「人としておかしなことではない」なんて いいかたを する。


 jtwさんにしても そうですね。「日本国民大半の意識だと思うんだ」なんて マジョリティ集団に よりかからないと、さべつ ひとつ まんぞくに できないんですか?


 この、「マジョリティ集団に よりかからないと、さべつ ひとつ まんぞくに できないんですか?」というのは、かっこいいし、すてきなフレーズだと おもいます。けれども、どこか ひっかかるところがあります。


 もう おわかりかもしれません。つまり、ひとは「マジョリティ集団に よりかか」ることなしに だれかを 差別することはできるのだろうかということです。関係を 対等にしないかぎりは、平等を 実現しないかぎりは「朝鮮人が日本人を差別する」ことはできないということです。


 その意味で、つぎのような発言は くだらないのです。


id:munyuu これはひどい, ブサヨク で、何で朝鮮人は日本人をはじめとする外国人を差別しつづけるわけ? ブサヨク日本人が現実を全く見ていないことがよく判る。
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 人間の総体のなかから、なんらかの観点から ひとつの属性をつくる。カテゴリーを つくり、だれかを「やつら」と みなす。ここで、「われわれ」という集団意識が うまれます。そしてまた、「やつら」と みなされた側でも、ゆっくりと「われわれ」意識が めばえます(「われわれ」意識が めばえない場合もあります)。


 ここで、自分たちから「やつら」を 排除した側が 差別者です。国民国家における「外国人」差別も、このような図式によるものです。そしてそれは、やねごんさんが ていねいに説明されていることです。もう一度、やねごんさんの議論をみてましょう。


 かれらが 「国益」なるものを みいだすのは、ぎゃくに 「他国との 対立・敵対関係」を 強調することによってです。たとえば、「日本と 北朝鮮は 対立している」という ファンタジーを かれらは むじゃきにも しんじていたりします。あとで のべるように、国家どうしは たがいに その 存立の こんきょを あたえあうことで 共犯関係にあるのであって、「対立」ないし「敵対」しているように みえるのは、みかけ上のことに すぎません。


 重要なのは、「日本が ほかの ある くにと 敵対している」という ファンタジーを しんじてしまった ひとには、「こくみん」というのが あたかも 共通の「国益」を もつ ひとびとからなる 集団であるかのように みえてしまう、ということです。この順序を ぎゃくに りかいしては なりません。《「国益」を 共有する 「こくみん」の 集団が まず あって、それが 「国益」を 共有しない よその 「こくみん」と 敵対する》という 順序では ありません。そうではなくて、《まず、国家どうしの みかけ上の 敵対関係が 想定され、のちに 「かれらと 敵対する われわれ」という かたちで 「国益」を 共有する 「こくみん」が 想像される》のです。その いみで、「国益」という 観念は、戦争状態 もしくは それを ゆめみる いしきの 産物に ほかなりません。


 じつに、おっしゃるとおりだと おもいます。



 さて。さいごにひとつ。こころぐるしい はなしを。


 わかりやすい敵が めのまえにいるとき、どうにもこうにも、自分の正当性は あきらかであるように感じられます。ですが。


 たとえば、わたしは知的障害者の施設で しごとをしてます(「あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。」)。わたしの職場はグループホームも いくつも運営しているのですが、わたしの部署は入所施設です。社会の都合で、制限された空間を いきているひとがいます。そこで しごとを している わたしは、毎日の業務で なにを どうしようとも、正義などではありえないのです。これは社会全体の問題ですから、社会をつくりなおさないかぎりは、胸をはれる日など、おとずれはしないのです。それまで わたしは、差別者でありつづけるのです。


 でもだからといって、わたしが自己批判をつづけて絶望して、無気力になって、死んでしまえば正義になれるでしょうか。そんなはずもないのです。


 ですから、たいせつなのは、「わたしは どの方向を むくのか」ということです。たとえば、国籍差別を なくさないかぎり、わたしは差別者です。そして、それは いやなのです。だから、差別をなくすことをめざすのです。


 そしてそれは、意識や かんがえかたを かえるということに とどまるはずがありません。差別を 再生産しつづけている構造を こわす必要があるのです。


 あらゆる差別行為は 差別の構造に よりかかったセカンドレイプです。


 何重にも つみあげられてきた差別に さらに差別をかさねるふるまいです。そして、それは恥の うわぬりでもあります。


 罪ほろぼしは、差別の構造を ほろぼす以外にありえないでしょう。そうではありませんか?