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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

本が でました:『ことばのバリアフリー』生活書院

単著が でました。税込みで 2160円です。


あべ・やすし『ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』生活書院


これまで かいてきた論文4本や、このブログで かいてきたことなどを 整理して まとめました。くわしい もくじは うえのページを みてください。


かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院の続編でも あります。



ジョディ・フォスター主演の『ネル』という映画が あります。今回、本を まとめながら、おもいだしていたのが あの映画です。ぜひ みてみてください。いい映画です。


「あれが できない」「これが できない」といって だれかを 非人間化してしまうことが あります。そういうことは やめたいし、やめるべきだと おもうのです。


あたりまえって なんだろう。なにが どうあることが、あたりまえなんだろうか。そういうことを といなおす本です。ことばは、大事なものなのだけど、人は、ことばを つかうことで、だれかを 排除していることだって あるのです。そうではない ことばの つかいかたって、あるんだろうか。ありえるんだろうか。どうだろうか。


コラム2は「だれでも参加できるじゃんけんとは」という内容です。2008年に このブログに かいた「じゃんけんのユニバーサルデザイン」を かきなおしたものです。


じゃんけんを いろんなものに あてはめて、かんがえてほしいのです。それが じゃんけんではなくて、選挙の投票だったら どうなのか。じゃんけんではなくて、漢字だったら どうなのか。テレビ放送だったら? 新聞だったら? いろんなテーマが あります。



ことばで 人を テストすること。それって、どういうことなんでしょうか。わたしには、それは いやなこと、やりたくないこと、ひどいことであるように おもえてしまうのです。それでも テストを するのであれば、なんのために、どのように テストを するのか、かんがえなくては いけないし、説明することが できないと いけない。そんなふうに おもいます。


ことばやコミュニケーションについて、だれが どのようなことを 論じているのか。どんな問題があると いわれているのか。そういったことを くわしく整理して、自分なりの意見を まとめてみました。ぜひ よんでください。



10年まえの関連記事:

はなしが ちがうじゃないか!(研修生制度も、わかりやすいニュースも)

 社会のなかで流通している情報というものは、そのままでは わかりにくいことが あります。ことばづかい、内容そのものが むずかしい。あるいは、文脈や背景の知識がないと わかりにくい。そういうことが あります。そこで、情報を みんなに とどけるために、かみくだいて説明する 必要が でてきます。


 たとえば、あたらしい法律が できたとき。その法律を わかりやすく説明するパンフレットを つくる。


 ひとつ 例を あげます。2016年 4月1日に、障害者差別解消法が施行されます。内閣府のページを みてください。


内閣府「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」


 うえのページを みると、法律の本文や概要などは「るびつき」PDF、「るびなし」PDF、テキストファイルの 3種類が 用意されています。ふりがなが あれば よみやすい人、ふりがなは ないほうが いい人、PDFファイルではなく テキストファイルが いい人、そういったニーズに対応しているわけです。


 「障害者差別解消法リーフレット」も つくって、さらに「わかりやすい版」を 用意しています。


 こんな とりくみを どんどん ひろげていこう! ことばの かべを とりのぞいて、大事なことを みんなに 知ってもらおう!


 政府が ながす情報だけじゃなくて、テレビのニュースや新聞も、わかりやすくする必要があります。バリアフリーにしていかないと いけません。



 ここで みなさんに宣伝したいのが、NHK「ニュース ウェブ」の わかりやすい版です。「ニュース ウェブ EASY(イージー)」と いいます。名前が 英語で わかりにくい! だけど、中身は よく できてます。工夫してあります。


 NHKは、「ニュース ウェブ イージー」を つぎのように説明しています。

「NEWS WEB EASY」は、小学生・中学生のみなさんや、 日本に住んでいる外国人のみなさんに、わかりやすいことばでニュースを伝えるウェブサイトです。


 わたしは、NHK「ニュース ウェブ イージー」は いいなあ、大事だなあと おもっているので、『マイノリティの社会参加―障害者と多様なリテラシー』という本でも 紹介しました(第10章「情報のユニバーサルデザイン」)。


 それで、ですね。きょう、研究会で「ニュース ウェブ イージー」が話題になったんですね。で、そのとき、つい先日(3月26日)、ウェブで おおきく話題になった「”コンビニを外国人実習生の職種に” 協議へ」というニュースが、わかりやすく説明されているのを 知ったんです。どんなふうに説明してるんだろう?と 気になったわけです(すべてのニュースの わかりやすい版が つくられているわけではありません)。


 もとの記事と わかりやすい版「外国人がコンビニの仕事を習うことができるようにする」を みてみました。みなさんも、どうぞ。



 おかしい…。内容が ちがうように みえる…。


 気になったポイントは つぎの ふたつです。

  • 「コンビニの「店舗運営管理」」を 「コンビニの店の経営のしかた」と表現している。
  • 「国内のコンビ二の人手不足を補う目的に利用するのではないか」という「批判も予想される」ことと その対策の説明を はぶいている。


 一般に、コンビニの店舗運営管理というと、「コンビニを まわすこと」=「現場の仕事」ですよね。ちがいますか?
 一方、「お店の経営」だと、現場に でない場合も ありますよね。わたしは、経営というと、「本社に いる人」とか「社長」を イメージします。
 ちなみに、ニュース ウェブ イージーの ことばの説明を みると「事業をやっていくこと」とあります。


 こういう いいかえと省略は、ニュースを わかりやすくしているというよりも、「ごまかしている」というふうに感じてしまいます。べつに、意図的に ごまかしているとは おもっていません。でも、結果的に そうなっていると おもいます。


 はなしを まとめます。気になったのは、つぎの ふたつです。

  • 外国人実習生制度は、国際協力のための制度であり、日本企業の海外戦略のために利用するのは おかしい。制度を ねじまげて、悪用しようとしている。
  • わかりやすく説明するためのページなのに、誤解を あたえる内容になっている。問題点を はぶいている。


 日本政府は、外国人研修生制度を ねじまげて運用してきたと わたしは おもいます。人手不足を 解消するための道具にしてきたと おもいます。
 NHKに対しては、なにもかも ねじまげて報道してきたというふうには おもっていません。問題、批判すべき点は あるけれども、公共放送として、役割を はたそうとしていると おもっています。だからこそ、わかりやすい ことばで ニュースを つたえるという とりくみも、評価しているわけです。でも、今回の件は びっくりしました。こんな つたえかたを してしまえば、何重にも、「はなしが ちがう!」ということになるからです。


 わかりやすく つたえるということは、どういうことなのか。わたしが、わかりやすい版を つくるなら、どういうふうに表現するのか。かんがえてみたいと おもいます。
 NHKの みなさんも、あらためて かんがえてみてください。


関連記事:

追記:補足すると、わかりやすい版の記事名は「外国人がコンビニの仕事を習うことができるようにする」なので、いかにも「現場の仕事」を イメージさせますが…。「経営」は やっぱり おかしいだろうと おもいます。また、記事名としての情報量も、不十分だと感じます。

限定して可視化すること、あえて限定しないこと。

 本屋が すきです。どんな本が でてるか チェックするのが すきです。いきがいです。ひたすら 気になった本を はてなブックマークに 記録するのが だいすきです。


 おともだちの すぎむら なおみさんが また本を だしてて。


すぎむら なおみ/えすけん『はなそうよ! 恋とエッチ みつけよう! からだときもち』生活書院


 本屋さんには、この本の ちかくに『LGBTってなんだろう? からだの性・こころの性・好きになる性』って本がある。だいたい、おなじ おおきさ。おなじ ぶあつさ。どちらも、おなじころに でた。共通点は おおいのだけど、『LGBTってなんだろう?』のほうが やまづみになってる。LGBTというのは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字。


 わたしはLGBTという表現よりも、クイアとか性的マイノリティという表現を つかいたい。LGBTといったって、ジェンダーセクシュアリティは ゆらぎのあるもの、それだけのカテゴリーに おさまりきるものではないもの、だと おもうから。 まあ、そもそも対象化すべきなのは、社会であり、システムであり、多数派(マジョリティ)だと おもうので、異性愛中心主義であるとか、性別二元論/性別主義という表現を、批判的な意味を こめて、積極的に つかうようにしたいのだけど。


 けど、まあ限定して可視化して、注目を あつめるということも、あるよね。いや それでも、限定したくないんだ、ということも あるよね。


 いろいろ 本は あるわけだけど、「とどけたい」「つたえたい」ていう気もちが つまった本って あるんだよね。読者が いろんな ひとに「つなげたい」と おもえるような本。



………。えっと、内容については なにも かいていないのは、まだちゃんと中身を みてないからです。 けど、とにかく、本の題というのは、マーケティング戦略であると同時に、思想や理念を あらわすものでもあると おもうのです。それだけ。


関連記事:

勝手に 定義して、他者の民族性を かたることの問題。

 坂口安吾(さかぐち・あんご)のエッセイに「日本文化私観」というのがある。


 伝統と生活と。ブルーノ・タウトは、日本を 訪問し、日本の あれやこれやが うつくしいと いった。その あれやこれやは、いわゆる伝統というやつだ。安吾は、生活が大事だと いった。

 然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距(へだた)りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲(わんきょく)した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑(びんしょう)が甚だ浅薄でしかないのである。彎曲した短い足にズボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々がそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧の筈はないではないか。
 僕は先刻白状に及んだ通り、桂離宮も見たことがなく、雪舟も雪村も竹田も大雅堂も玉泉も鉄斎も知らず、狩野派も運慶も知らない。けれども、僕自身の「日本文化私観」を語ってみようと思うのだ。祖国の伝統を全然知らず、ネオン・サインとジャズぐらいしか知らない奴が、日本文化を語るとは不思議なことかも知れないが、すくなくとも、僕は日本を「発見」する必要だけはなかったのだ。


 印象的な文章だけれども、なかでも「我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ」であるとか「説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない」という部分。


 気になるのは、少数民族や先住民の場合は どうだろうかということ。安吾の文章は、オリエンタリズム(他者による勝手な美化や想定)を 批判する内容であるけれども、同時に ナショナリズムに たっている。


 「アイヌは もういない」だの、なんだのと、暴言を はく ひとたちが いる。そういう暴言について。


 アイヌでも、先住民でも、ステレオタイプとして、「こういうものだ」という想定がある。そして、その想定に そぐわない、合致していないといって、「いない」というわけだ。勝手に 他者を 定義し、「「そういう ひと」は いない」と。


 勝手な 想定に そぐわないからといって、だから なんだというのだ。どういう かたちであれ、そのひとが アイヌとして いきているのであれば、そういう生活が あるだけだ。そのひとなりの、固有の、アイヌとしての生活。そして、おぼろげながら ほかのアイヌと共有している なにかが ある。それが文化というものだ。


 それが和人に みえようと、みえまいと、そんなことは関係ないじゃないか。勝手に定義して、その定義によって 人間を まなざすことの問題。みたいものしか みないという態度でしかない。


 結局は、わたしは、どのような社会で生活したいのかということ。文化的に均質な社会が いいのか、あるいは、同化を しいられない社会で生活したいのか。同化は 政治による政策というかたちを とることもあれば、日常の関係においても、おしつけてしまうこともある。同化は、せまるのも、せまられるのも いやだ。


 「アイヌは もう いない」という発言は、「同化の完成」を 確認しようとすることだ。同化主義を つづけることを 賛同するということだ。そんなことは、ゆるせるはずがない。


関連記事:

「言語学習のユニバーサルデザイン」

 4年まえに、言語学習のユニバーサルデザインを! - hituziのブログじゃがーという記事を かきました。これを みてくださったのだと おもいますが、『日本語学』という雑誌の編集部から原稿依頼を いただきました。「福祉の言語学」特集むけに、「言語学習のユニバーサルデザイン」というテーマで。
 ありがたいことに、問題なく かきあげることができまして、雑誌の現物が とどきました。


『日本語学』2014年 9月号。特集「福祉の言語学」。



 「言語学習のユニバーサルデザイン」の もくじを 紹介すると、

1 はじめに
2 言語をやりとりするチャンネル―聴覚、視覚、触覚
[1] からだの多様性からみた言語
[2] ステレオタイプの問題
3 情報のユニバーサルデザイン
[1] 映像メディアの場合
[2] 印刷メディアの場合
4 言語教材のユニバーサルデザイン
5 学習環境のユニバーサルデザイン
6 おわりに
参考文献


という内容です。


 『日本語学』という雑誌は、1991年 3月号に「識字と文字習得」という特集を くんでいます。わたしは2000年ごろに よみました。この特集号は、当時の わたしにとって とても参考になる内容でした。


関連リンク