hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

紹介『マイノリティの社会参加―障害者と多様なリテラシー』

 佐々木倫子(ささき・みちこ)編『マイノリティの社会参加―障害者と多様なリテラシー』くろしお出版


という本が でました。わたしも かいています。 「情報のユニバーサルデザイン」


 編者の佐々木倫子さんは、この本が どのような視点から つくられたものなのかを、つぎのように説明しています。

 本書は研究者の論文集ではない。書き手には研究者もいるが、教育者やジャーナリストもいる。障害の当事者も非当事者もいる。日本人もいれば、米国人、オーストラリア人もいる。異なる文化的背景を持つ人間がそれぞれの声を挙げており、それがゆるやかな、ひとつのメッセージとなって読み手の心に残ることを願った。


 本書の編集を思い立った背景には、2012年に出版した1冊の本がある。手話を切り口に多文化共生を考えた本で、ろう者と聴者、半々の書き手で編成し、ろう者自身に届くことを願って編集した。しかし、ああいう論文集のような本はエリートのろう者以外は読まないという感想を聞き、翌2013年に、より広い層のろう者向けに、手話によるDVDブックを制作した。


 その経験をもとに、本書は各著者の語り口を生かし、リテラシーの多様性をテーマとし、それを実感してもらえることを重視した。そして、もうひとつのテーマが障害者の社会参加で、障害当事者の声を出発点に、施策から教育現場までを採りあげた。第1章のディスレクシア当事者である神山氏は魅力的な「ディスレクシアリテラシー」を語る。第2章の森田氏は、多くの視覚障害者たちが現有の視覚能力を生かせていない事実、そして、ロービジョン当事者として、“専門家”まかせにしないことを説く。第3章の小野氏は聴者家庭に生まれたろう者、第4章の川島氏はろう者家庭に生まれたろう者の生い立ちと社会参加の過程を語る。川島氏の親世代のろう者は、身内にもその存在を隠され、学ぶ機会もなく、職もなく、置かれた状況に不満すら持たなかった。一方、第5章のヴァレンティ氏の、長い、私小説的語りからは、聴者の基準で判断され、声を出すことを期待される、氏のアイデンティティの叫びが伝わってくる。最初にオリジナルの英文を読んだ、ニュージーランド人の研究者(筆者の友人で聴者)は、その英文に眉をひそめた。いわゆる論文の形式におさまらないものだったからである。しかし、筆者はそれを生かした和訳を翻訳者にお願いし、また、英語の原文もWebサイトから読めるようにしてある。第6章では、ろう者の中山氏による、ろう者へのインタビューによって、日本のろう教育の課題が明らかにされる。


 続く章の紹介は省略するが、第2部では、障害の当事者、非当事者が入り乱れて、多様な社会参加のあり方を追い、第3部は「社会のバリアフリー化と多様なリテラシー」と題し、目を今後に向ける。「障害」の世界の、多様で複雑な、課題に満ちた、そして、豊かな姿を、1冊の本で語りつくすことなど出来るはずもない。


 しかし、その入口は十分描けたのではないかと思う。「多様なリテラシー」の一端を読者に実感していただければ望外の幸せである。


 佐々木さんとしては、佐々木倫子『ろう者から見た「多文化共生」―もうひとつの言語的マイノリティ』ココ出版から一歩すすんだ続編ということになるでしょう。


 わたしとしては、かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院の不足分を おぎなう内容になっていて、うれしいかぎりです。


関連記事:

「社会参加」と「社会的排除」。

 社会参加は、社会的排除の反対語。そういう とらえかたで、ほんとうに いいんだろうか。


 マイノリティの社会参加を すすめるというのと、社会的排除を やめる、あらためる、あるいは 社会的排除を 批判するというのとでは、やっぱり意味あいが ちがってくると おもう。


 不公正、不公平が まずあって、それに対して、対策を たてる。改善する。なくす。たとえば、バリアフリーというのは そういう概念。


 たとえば、障害者の社会参加というような表現は、それは すばらしい ことば、大事な理念であるようでいて、じつは、そこには ある種の いやらしさが あるように感じる。排除してきた これまでの歴史があって、それを 改善する、やめるということであるはずなのに、「仲間に いれてあげる」というようなパターナリズムが そこには あるんじゃないか。ふくんでしまってるんじゃないか。それって、ぬすっとたけだけしいことなんじゃないか。


 そもそも「社会って なんやねん」と、くりかえし 問いつづける必要が あるんじゃないか。


 おなじ意味で、多言語化/多言語主義というのと、単一言語主義を 批判するというのは、おなじではないと おもう。わたしは、「単一言語主義を 批判する」というスタンスを とりたい。そこには それなりの意味があると おもっている。「単一言語主義を 批判する」というとき、そこには「ひとつのことば」って、いったい なに?という問いも ふくまれるものであるし、その問いを ふまえない「多言語主義」というのは、矛盾を かかえることになると おもう。


 以上、ただのメモがきですが…。最近というか、この数年、感じていることです。



うえのような問題意識は、以下の本が したじきにあります。


あと、これまで このブログに かいてきたことでもあります。

紹介『「やさしい日本語」は何を目指すか』

 庵功雄(いおり・いさお)/イ・ヨンスク/森篤嗣(もり・あつし)編『「やさしい日本語」は何を目指すか―多文化共生社会を実現するために』ココ出版


という本がでました。わたしも かいてます。


「情報保障と「やさしい日本語」」



関連記事:

学習権と教育権と。

 わたしは、学校教育じゃなくて、学習支援で いいじゃんと主張することがある。いつでも、どこにいても、何才でも、だれもが学習できる。それが大事なんだと。


 こどもを 学校に いかせるというのは、親にとっては託児所に こどもを あずけるという意味もある。親だって、こどもとばかり 顔を あわせていたくない。こどもだって、そうだろう。そういう意味で、学校という居場所には社会的な意味があるんだと感じる ひとも いるだろう。ただし、「学級」という空間の是非についていえば、わたしは完全に否定的だ。学級というシステムが人間を ダメにしている。くるしめている。わたしは そのように かんがえている。
 学級という空間の だめっぷりを 批判し、介入していくうえで、学習支援という視点は重要な意味があると おもっている。


 わたしは訪問語学講座を ほそぼそとやっている。あるときには ひとりの学習者に ふたりで訪問するということをした。おもしろかった。ふたりのほうが、そのひとに いろいろと おそわっていたわけであったけれども。


 わたしは ふだん介助の仕事をしていて、一対一で生活の介助をしている。入浴の介助は ふたりですることもある。


 そういうことを 経験していると、学級というシステムは、「やすあがりに すませてしまおう」という魂胆ばかりが感じられて、どこが「教育」だよと感じてしまう。


 すぐに「予算が」という ひとが いるけれども、日本の教育費の すくなさを かんがえてみれば、「もっと予算を」というしかない。まともに 予算を つけてから心配しなさい。


 学習支援というのは、学習権を 保障するということだ。人間には いろんな ひとがいる。教室で みんなといっしょに なにかを まなぶということが、苦痛でしかない ひとも いる。そういう ひとも学習する権利がある。「学級」というシステムに支配されなければ学習する権利が保障されないというのは不当だ。おかしい。


 これまで、そんなことを かんがえてきた。で、ここまでの はなしで無視しているのは、教育者であれ、学習支援者であれ、「これを つたえたい」「おしえたい」という欲望を もつことがあるということだ。それを パターナリズムであるとか、「教育」であるといって否定するのかどうか。否定できるのかどうか。


 いろいろと かんがえてみて、わたしは、いまのところは そういう欲望を 否定することはないのかなと おもう。そりゃ、あるよね、そういうことは。つたえたいこと、おしえたいこと、おしえるべきだと感じること。


 で、そういうことについて かんがえてみると、それは教育権という ことばで とらえることができるのかなと。とくに、教育権というのは、自民党のような 教育支配を もくろむ勢力が 幅を きかせている社会では、重要な理念になりうると感じる。教育を 支配することで、人間を 支配するという、学校教育をイデオロギー注入装置にするという。


 「学校教育は、そもそも そういうものだ」と一般化することもできるだろう。「だからダメなんだ」ということもできるだろう。しかし、それでも、国家権力の介入に抵抗して、「自分なりの」教育内容を つくりあげようとしている ひとたちのことも、わすれることはできない。歴史を修正したり、美化したりしようとする国家権力に抵抗し、日本の植民地支配責任を といつづけるような、そういう教育実践を つづけている ひとも、たぶん、教育現場には いるのだ。で、そういう ひとたちの権利のことを 教育権ということはできるのかなと おもう。


 しかし、わたしは やはり学習者の権利を わすれることはできない。学習者の権利というのは、国家権力との関係における権利であると同時に、教育者/学習支援者との関係における権利でもある。


 知識の量が ちがうという点で、学習者と学習支援者は非対称な関係にある。注意しないと、平等や公平という理念が ないがしろにされる危険性がある。学習者の権利は、かんたんに制限されてしまう。介助者が いとも かんたんに、障害者の権利を 制限してしまうことがあるようにだ。


 だから、教育権ということと学習権ということを 同列に あつかうべきではない。しかし、教育者/学習支援者の教育権を 無視することは、わたしにはできない。今のところは。


 わたしは、教育者や学習支援者の欲望が なくなってしまうような社会になれば いいなと おもう。情報が きちんと保障され、学習素材が 社会のあらゆるところに配備されていて、だれもが歴史や社会問題について かんがえる主体として存在していて、公共図書館が たくさんあって、本だけでなくて、映像や音声資料も たくさんあって、議論する場もある。交流する場もある。みんなに たべるものがある。みんなに、ねるところがある。政治家も 暴言を いわない。そんな社会。


 教育者や学習支援者の欲望というのは、現実が ふがいないからこそ、生じているんだろうと おもう。



 ということで、学習権を 確立するために、いろんなことを やっていけたらなと おもっています。


関連記事:

「みなし再入国」制度は詐欺の手口だ(追記しました)。

 日本で生活している外国籍の人が日本から出国するとき、「再入国許可」を とらないと、それまでの在留資格をうしなってしまうという問題があります。そして、その再入国許可というのは、お金をはらって、地元の地方入管(住居地を管轄する地方入国管理官署)で申請をとる必要があるという問題がありました(参考:法務省:再入国許可申請)。


 2012年の改訂入管法法務省は「みなし再入国」制度をはじめました。法務省は「便利になりました!」とアピールしていました。


 法務省は、朝鮮籍の人は法務省が「有効」とみなすパスポートを もっていないといって、この みなし再入国制度を 利用させていません。この問題は、よく しられています。


 今回 紹介するのは、みなし再入国制度の もうひとつの問題です。いまになって紹介するのは、わたしの不勉強によるものです。反省します。



金朋央(きむ・ぷんあん)「特別永住者にとっての新在留管理制度」外国人人権法連絡会編『日本における外国人・民族的マイノリティ人権白書 2013年』9ページ。


見出し「「みなし再入国許可」に潜んでいた落とし穴」の部分。


 これまでの「再入国許可」は上限5年、特別永住者は6年というものでした。あたらしい「みなし再入国」制度では出入国カードの「みなし再入国を希望する」という欄にチェックすることで、みなし再入国の許可をうける。
 問題は、つぎの点です。金さんの説明によると、

ところが、本来の再入国許可(上限5年/特別永住者は6年)を受けた人がこの欄にチェックしてしまうと、みなし再入国として扱われ、再入国の期限は「みなし」に適用される期間内(1年以内か在留期限の短いほう/特別永住者は2年)とされる。その説明は、事前の広報でも、現在の空港出国カウンターでも全くなされていない。
 所定の再入国期限までに日本に戻って来られなかった場合は、日本出国前の在留資格を失い新規入国者扱いとなる。特別永住者も例外ではない。今回のみなし再入国は、便利になった反面、制度を熟知していないと在留資格を失うほどの危険性も孕んでいたのである。実際にみなし再入国が原因で在留資格を失うという由々しき事態が既に複数報告されている*1

ということです。これが、国が法にもとづいてやることでしょうか。こんなのは、詐欺の手口ではないでしょうか。


 じっさい、法務省だより あかれんが Vol.39というページの「みなし再入国許可」の説明部分を みても、従来どおり再入国許可を申請した人は「出入国カード」の欄にチェックを入れてはいけないということは、かいていない。


 ウェブを 検索してみると、http://www.shon.jp/blog/archives/687というページで この問題を 指摘しているのが確認できた。だが、これは民間の法律関係者が注意をよびかけるだけでは不十分なはずである。そもそも、このような「落とし穴」を つくることが まちがっている。


 きちんと説明しないで、書類上の不備を 根拠に、日本に生活基盤がある人に対して、あなたには これまでの在留資格を みとめないという。そんなことは ゆるせない。
 あたりまえのことでしょう。



 そもそも、法務省に「出入国管理」という視点しかないことが おかしいのです。権利として規定するべきことを、「在留資格」などという ことばで規定しているのが おかしいのです。生活者のための人権政策が必要です。


 人間を ひもで くくりつけるのは、いいかげんにしろ!


関連記事:

*1:追記:著者に確認したところ、この「複数報告されている」というのは、従来の再入国許可を事前にとっていた人ではないということです。みなし再入国をするつもりが、欄にチェックしていなかったということです。このことで「在留資格を失う事例が後を断たない」と報告されています『日本における外国人・民族的マイノリティ人権白書 2013年』4ページ(旗手明(はたて・あきら))。法務省の設計上の不備であり、「カードの様式や手続の改善が必要だ」(同:4ページ)と、わたしも おもいます。