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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

勝手に 定義して、他者の民族性を かたることの問題。

 坂口安吾(さかぐち・あんご)のエッセイに「日本文化私観」というのがある。


 伝統と生活と。ブルーノ・タウトは、日本を 訪問し、日本の あれやこれやが うつくしいと いった。その あれやこれやは、いわゆる伝統というやつだ。安吾は、生活が大事だと いった。

 然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距(へだた)りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲(わんきょく)した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑(びんしょう)が甚だ浅薄でしかないのである。彎曲した短い足にズボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々がそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧の筈はないではないか。
 僕は先刻白状に及んだ通り、桂離宮も見たことがなく、雪舟も雪村も竹田も大雅堂も玉泉も鉄斎も知らず、狩野派も運慶も知らない。けれども、僕自身の「日本文化私観」を語ってみようと思うのだ。祖国の伝統を全然知らず、ネオン・サインとジャズぐらいしか知らない奴が、日本文化を語るとは不思議なことかも知れないが、すくなくとも、僕は日本を「発見」する必要だけはなかったのだ。


 印象的な文章だけれども、なかでも「我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ」であるとか「説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない」という部分。


 気になるのは、少数民族や先住民の場合は どうだろうかということ。安吾の文章は、オリエンタリズム(他者による勝手な美化や想定)を 批判する内容であるけれども、同時に ナショナリズムに たっている。


 「アイヌは もういない」だの、なんだのと、暴言を はく ひとたちが いる。そういう暴言について。


 アイヌでも、先住民でも、ステレオタイプとして、「こういうものだ」という想定がある。そして、その想定に そぐわない、合致していないといって、「いない」というわけだ。勝手に 他者を 定義し、「「そういう ひと」は いない」と。


 勝手な 想定に そぐわないからといって、だから なんだというのだ。どういう かたちであれ、そのひとが アイヌとして いきているのであれば、そういう生活が あるだけだ。そのひとなりの、固有の、アイヌとしての生活。そして、おぼろげながら ほかのアイヌと共有している なにかが ある。それが文化というものだ。


 それが和人に みえようと、みえまいと、そんなことは関係ないじゃないか。勝手に定義して、その定義によって 人間を まなざすことの問題。みたいものしか みないという態度でしかない。


 結局は、わたしは、どのような社会で生活したいのかということ。文化的に均質な社会が いいのか、あるいは、同化を しいられない社会で生活したいのか。同化は 政治による政策というかたちを とることもあれば、日常の関係においても、おしつけてしまうこともある。同化は、せまるのも、せまられるのも いやだ。


 「アイヌは もう いない」という発言は、「同化の完成」を 確認しようとすることだ。同化主義を つづけることを 賛同するということだ。そんなことは、ゆるせるはずがない。


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