hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

じゃんけんのユニバーサルデザイン

じゃんけんほい。あいこでしょ

民族音楽の研究者の小泉文夫(こいずみ・ふみお)さんが世界中の じゃんけんを 紹介していたように おもうのだが、よく おぼえていない。ウィキペディアを みてみるか(じゃんけん - ウィキペディア)。長文だな。ながしよみ。


はい。きょうのはなしは、じゃんけんのユニバーサルデザインについてです。

グーというのは石。パーというのは紙。チョキというのはハサミ。なるほどね。グーは、手をにぎる。パーは、指をのばす。チョキは、ひとさし指と中指をだして、のこりの指は にぎる。

おもうんだけどさ、グーとかチョキとか、できないひと いるじゃん。指が にぎれないひと。パーとグーが ほとんど いっしょになるひとね。そういうひとって、いくらでも いるわけですよ。からだの特性でパーしか できない。

「だれでもグーとかチョキとかできるはずだ」ってのは幻想なわけ。だれでも できることじゃない。グーができないひとって、たくさん いるわけ。


それでは、どうしたら いいんでしょうか。あなたなら、どうしますか。

「え、グーもチョキもできないの? じゃあ、あっち いってて。できないんじゃ、しょうがないじゃん。」

「あ、グーもチョキもできないの? ああそれって、指が にぎれないってことね。おっけ。だいじょうぶ。」

あなたなら、どうしますか。これね、いい方法を おしえてもらったの。

  • 手のひらをしたにむけて、グー。
  • 手のひらをうえにむけて、パー。
  • 手のひらをたてにして、チョキ。

おー。意外と かんたんですね。パーのままで じゃんけんできる! すげえ。


ここから以下、うそでたらめを かきます。ご注意ください。


半年くらい前ね、「西日本じゃんけん愛好会」の会長さんにインタビューしたんですよ。

まず、わたしが「手のひら じゃんけん」を実演してみせました。それで、「手のひらのむきをかえるだけで じゃんけんできるんですよ。大発見でしょう? いかがですか。おもしろいでしょう?」

そしたら、会長さんはとっても残念なことを おっしゃるわけです。



会長「そもそも じゃんけんというものはだね。グーは石であり、パーは紙だ。で、チョキはハサミだね。きみも よく しっているだろう。」

あべ「はい。まあそうですね。」

会長「じゃんけんには歴史もあり、意味もある。それを、手のひら じゃんけんだと? ばかにしてるのか!」

あべ「そんなことは…(涙目)。」

会長「そんなもんはな。もはや、じゃんけんと よべるもんじゃないんだよ。そんな ふざけたことをやりたいやつは、愛好会には入会させんぞ。わかったな。」

あべ「入会したくて うかがったわけではありません!」

…中略…

会長「ともかく、きょうは つかれた。かえってもらえんかね。」

あべ「………。失礼しました…。」



わたしは、じゃんけんにたいする愛が たりなかったのだろうかと自問自答しました。手のひら じゃんけんなんて、だれも みとめては くれないのか…。いくら手のひらのむきを かえてみても、しょせんは全部パーなのか…。じゃんけんって、いったい なんなんだ?


じゃんけんって、なんのためにするんだろう。わたしは迷路に まよいこんでいました。こたえのない こたえを さまよう迷路に はいりこんでしまったのです。手さぐりで つかもうとしながらも、わたしの心は うつろでした。

それから、3ヶ月たったときでしょうか。「チューリップ大学 じゃんけん同好会」の みほさんに偶然であったのです。


あべ「あー、チューリップの。じゃんけ…。」

みほ「そうそう。あー、あべちゃん元気?」

あべ「どうかな…。微妙?」

みほ「ふーん。ところで、じゃんけん しようよ」

あべ「え…? やだよ。」

みほ「いいからさー。はあい、じゃんけんぽい。」

わたしは、なげやりに、手をはらうポーズをしました。

みほ「あ、あべちゃんパーね。わたしグー。まけちゃった。」

あべ「いや、だしてないし。やらないよって手でジェスチャーしただけやん。」

みほ「それでも いいの!」



「それでも いいの!」に ふかく感動したのは、いうまでも ありません。

「それでも いい」。なんて すてきなの! その日から、「それでも いいの」が頭から はなれません。「それでも いいの」に とりつかれてしまったのです。すべてを うけいれ、肯定する つよい力を感じたからです。


さて、「西日本じゃんけん愛好会」の会長さんも、歴史をせおった人物です。じゃんけんに没頭し、ねる時間を おしんでさえも、じゃんけんの歴史を ひもとき、そして、じゃんけんの すばらしさを世間に うったえてきた。その愛着というか、信念というものは、ゆるがないものでしょう。それは、うけいれることが できます。

けれども、あの会長さんにしたって、指が にぎれないひとに であう機会があれば自分では「ただしい じゃんけん」をしつつも、相手の「手のひら じゃんけん」を うけいれることでしょう。

それにしても不思議です。なぜ あの博識の会長さんが「手のひら じゃんけん」を しらなかったのか。

わたしは、そこにもまた歴史を感じます。だって会長さんは物理的に であえなかったのです。チャンスを あたえられていなかったのです。会長さんが 学生だったころ、「体に障害があると みなされる」ひとたちは、学校に かよっていなかったのです。おたがいが隔離されていたのです。

じゃんけんは指が にぎれなくても、手のひらのむきを かえれば できないことは ないんだ。わたしは信念をもって、じゃんけんのユニバーサルデザインを提唱しました。

もちろん、これまでの じゃんけんを全否定し、「手のひら じゃんけん」だけを普及させようとしたのではありません。こういった じゃんけんもあることを うったえる活動をしたのです。


そして きょう、衝撃の事実を しりました。これには、まいってしまいました。ほとほと自分の ごーまんさに気づかされ、ふかく反省させられました。友だちの けんちゃんが いうのです。


「じゃんけんって、ルールが理解できないひとも いるよね。あれって けっこう むずかしいゲームじゃん。」


けんちゃんには、知的障害のある おにいさんが います。その おにいさんは、じゃんけんができないというのです。なるほど。そのはなしは、わたしにとっても納得できるものでした。なぜなら、わたしにも おもいあたるひとたちが いたからです。

じゃんけんなどに興味をしめさないひとたちも いる。ルールを しろうともしないひとが いる。たしかに そうだ。


はたして、ここで「じゃんけん障害」ということばを つくってラベルをはることに、なんの意味がありましょうか。

むしろ問題なのは、じゃんけんに過剰に意味づけをして、じゃんけんが人間にとって「だれでも たのしめるゲーム」であると錯覚してきた わたしのほうに、問題があったのではないか。


ああ。じゃんけんのユニバーサルデザイン…。わたしは なきそうです。


けんちゃんは技術屋さんです。けんちゃんは すでに、ボタンをおせば ランダムにグーチョキパーが表示される道具をつくっていたのです。

けんちゃんの説明によると、ほかのひとたちが まず通常どおり じゃんけんをする。そして、そのひとにボタンをおしてもらう。それで表示された グーやチョキやパーで勝敗が きまるんだと。

けんちゃんは、「あとだし じゃんけんなんだけど、それが いいんだ」と力説します。「まず、ほかのひとたちが じゃんけんをする。でも、それでは勝負は まだ きまらない。この じゃんけんマシンが最後になって、あいこか、かちまけを きめるんだ。どうだ。わくわくするだろう?」


わたしは うなってしまいました。そうだなあ。それも おもしろそうだなあ。


あべ「けど、けんちゃん。それってマシンでやるひとは たのしいのかな。」

けん「ん、それは むずかしいね。けど、マシンで参加したひとが、いざ かったとしよう。で、賞品をもらう。それなら、うれしいかもしれないぜ。」


たしかにそうです。もし、マシンが存在しないことで、賞品をもらえるかもしれない可能性が うばわれてしまうとすれば、それは残念なことです。そうだなあ。


ああ。じゃんけんのユニバーサルデザイン


じゃんけんをするとき、その状況ごとに理由があるはずです。目的があるはずです。まず、「なんのための じゃんけんか」が重要です。そして、じゃんけんに こだわらない姿勢をたもつことも、重要なのかもしれません。

ふとすると、わたしたちは だれかを「じゃんけん障害」だなんて よびならわすかもしれないのです。それって、おそろしく ごーまんなことです。



はい、以上です。

うえに かいたことは、わたしが とりくんでいる表記のユニバーサルデザインと かさなる点もあれば、かさならない点もあります。けれども、示唆的な論点をふくんでいると おもいます。いきおいで かいたものですから、自分でも よく頭が整理できていません。


ともかく「じゃんけん」を例に、ユニバーサルデザインを かんがえてみました。


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