反原発を 分断する優生思想。
反原発運動の なかでの「優生思想」の問題が、以前から指摘されてきました。たとえば、2011年2月には つぎのような記事が問題になりました。
この記事には、たとえば つぎのような文章があります。
日本の原発は、たくさん放射能が漏れています。ごまかして隠してますが、原発地帯の子供達は奇形児や白血病が多いのです。
みなさんの子どもが、原発地域で育った女の子と結婚したいと言ったらどうしますか?
年頃の女の子は、奇形児を産む可能性が高いから結婚できないのです。
このひとは、結婚差別を 批判することなく、むしろ利用し、そして「奇形」を さけるべきものと規定しています。上関(かみのせき)に原発をつくるなと主張するために、このような論理は必要なのでしょうか。むしろ、反原発運動に差別を とりこむことによって、運動を 分断することになるのでは ないでしょうか。
この記事への はてなブックマークを みてください。
たとえば、b:id:sillyfishさんが つぎのようなコメントを かいています。
6,70年代の反原発運動や水俣病への抗議運動が、障害者差別を内包していたことを想起した/そして女性の身体は、人口の質に介入する媒介としてまなざされる
とても重要な指摘だと おもいます。
この ながれで、2011年3月には堤愛子(つつみ・あいこ)さんの文章が注目を あびました。1989年の文章です。
堤さんは、つぎのように主張しています。
「障害児が生まれるから、原発に反対」と短絡的にいったとき、「障害者は不幸」としている社会や、その社会を支えている個々人はまったく問われぬまま、「障害」のマイナスイメージだけが強調され、固定化されてしまうのだ。そのことの「恐さ」を多くの人に知ってほしい。結局それらは、「障害」をもつ人の人生を否定し、おびやかしていくものでしかないのだから。
この文章への はてなブックマークで、b:id:dimitrygorodokさんは、つぎのようにコメントしています。
何の為に原発に反対するのか考える上で避けて通れない問題。反対していく中で「障碍者」を切り捨てる事にならないか?自分が切り捨てられる側になってからでは遅いのだ。
「運動を 分断することになる」というのは、まさに このことです。
わたしは、なんのために原発に反対するのか。なぜ原発が問題だと かんがえるのか。それを きちんと かんがえていく必要があるということです。
そして、2011年3月11日に 東日本大震災と福島第一原発の大事故が おきました。
そして、また今度はツイッターで堤さんの文章が話題をあつめました。
しかし、反原発や放射線の危険性を うったえる運動は、いまだ優生思想(障害者差別)を 解消できずに います。その例として、「みえないばくだん」という詩が あります。ブログや ユーチューブで注目をあつめ、小学館から絵本として出版されました。
この詩では、後半に「ちょっとだけ おててのかたちが かわっているあかちゃん」が でてきます。そして、「そのこが しょうがくせいに」なり、「どうして? どうしてわたしは みんなとおててのかたちがちがうの?」と ないている場面がでてきます。
なんという時代錯誤な 物語だろうかと感じます。
わたしたちは、「みんな ちがって、みんな いい」、そういう価値観を かちとったのではないのですか。「ちがう」ということが、否定的なもの、悲劇的なものとして えがかれる。そんな時代は 過去のことでは なかったのですか。
もちろん、この日本社会の「みんな ちがって、みんな いい」というスローガンは、ご都合主義的で、不十分なものであることを しらないわけではありません。しかし、日本は いままさに国連の「障害者権利条約」に批准しようと準備しているところなのです。
「てのかたち」ていどの「ちがい」を かなしんでしまうような社会には、きっぱり決別しないといけないのです。それが時代の変化ということであり、この社会で展開されてきた障害者運動の成果であるはずです。
放射線は みえない。その影響も みえない。一度に つよく被曝すれば、目にみえるかたちで影響がでます。しかし、すこしずつなら、「ただちに健康に影響はありません」。みえないこと、わからないこと、それが ひとに恐怖を あたえています。そして、健康への影響は たしかにある。しかし、それは統計学的にしか確認できない。10年くらい あとにならないと確認できない。
そういう みえない放射線とは ちがって、うまれてくる こどもには、具体的なかたちが ある。いきている。いきる権利がある。差別されない権利がある。
健康に 害を およぼすということ。それは被害であって、悲劇ではない。涙を さそう必要はない。ひとには、外的な要因によって 健康を おびやかされない権利がある。だから、たとえば 嫌煙権が みとめられてきたのだ。
堤さんは、「「あたり前」はあたり前か?──「障害者」が生まれるから「原発に反対」は悪質なスリカエ論法だ ! !」という文章で、つぎのように かいています。
原発や放射能の恐さについて、「女たちの反原発」では「生態系のバランスがくずれること」と抽象的なことを書いたが、最近の私は「自分の健康がそこなわれること」と考えている。そういうとすぐに、
「ほら、やっぱり障害者でない方が、いいんじゃないの」という声が聞こえてきそうだ。 しかし、「障害」と「健康」は、はたして対立する概念なのだろうか。
わたしは、「生態系のバランス」という論点は不必要だと おもう。余分な論点だと おもう。
堤さんは、「「ありのままの生命」を否定する原発に反対」で、放射線という要因によって「障害者の割合が極端にふえたり減ったりして、多様性によって保たれている生態系のバランスがくずれ、生命の存続が危うくなる」ということが問題だと のべている。
しかし、この社会では さまざまな社会的、環境的な要因によって生態系のバランスは つねに変化している。それは おそれることではなく、そういうものなのだ。
「障害者」の出生率というようなものにしても、ふえたり へったりしている。たとえば、ある地域では、遺伝的な要因によって 聴覚障害の ひとが たくさん うまれる、ということがある。それは なにも おそろしいことではない。『みんなが手話で話した島』のように、きこえない ひとが差別化されない社会を うみだすことも ある。
だから、堤さんが いうとおり、放射線被曝の問題は、「健康がそこなわれること」だ。もちろん、健康という概念も、度が すぎれば「健康至上主義」「健康ファシズム」となってしまう。これでは優生思想と かわりない。しかし、健康に いきる権利は だれにでもある。健康を「義務」にしなければ いいのだ。
このように、障害ということと健康にかかわる問題を 区別すれば、論点は すっきりする。
だが、疑問は のこる。
いま、日本では障害者の福祉制度を 改革しようとしている。そして、課題のひとつとして、「制度の谷間の解消」が ある。それは、難病のひとを 障害者福祉の対象にしようということだ。
難病のひとにとって、健康とは なんなのだろうか。難病の ひとの おおくは、医療や医療的ケアと つきあいつづける。「障害はあっても健康だ」とは いえない ひとも いるだろう。
難病のひとも ふくめて「障害者」というグループを 想定するなら、健康被害を 批判することも、優生思想の一種になってしまうのではないだろうか。
この点が、なやましく、いくら かんがえてみても、よく わからない。結局のところ、健康被害(不健康)と障害のあいだに、明確に 線を ひくことなど できないということだろうか。
つぎに、野崎泰伸(のざき・やすのぶ)さんの「「障害者が生まれるから」原発はいけないのか」という論考を みてみます。野崎さんは、優生思想を 批判しつつ、「原発事故によって胎児や本人が障害を負わされることによってできなくさせられること」の加害性を 問題にしようとしています。
野崎さんは「胎児が原発によって障害を負わされた場合の賠償」について、つぎのように のべています。
…賠償を考える際、障害への負のイメージの付着は必要ないどころか、それじたいが障害者差別であり、有害である。なんとなれば、顔を殴られたあなたは、あなた自身の負のイメージを惹起(じゃっき)させることなく法的な賠償責任を追及していくことが可能なはずだからである。
(『部落解放』2012年1月号、21ページ)
これは奇妙な論理だと感じます。まず、「障害を負わされる」という時点で、すでに障害をマイナスのものとして とらえているように みえるからです。
たとえば、放射線の影響で、眼の色が 青や赤になった場合、それは賠償させるようなことなのでしょうか。「顔を殴られ」るということと、なにかが「できない」ということは質的に ちがいます。
わたしは、「障害を負わされる」という視点は、優生思想を ふくんでいると おもいます。障害を 否定的に とらえていると感じます。
さらに、もうひとつの問題は、「法的な賠償責任を追及していく」とき、なかなか みとめられなかった場合、どうしても その「被害性」を かたることは さけられないのではないかということです。そのとき、負のイメージを かたって うったえかけることになるのではないかということです。
この点についても、わたしは よく わかりません。
環境の さまざまな要因の影響を うけながら、わたしたちの からだが かたちづくられています。そのなかで、原発(事故)による影響は 特別に 問題視すべきものなのか どうか。それ以外の すべての環境的な要因について、問題にすべきなのか どうか。そして、だとすれば、その動機は なにに もとづくのか。優生思想ではないのか。環境運動の一環であり、優生思想とは関係がないのか。そんなことは ないだろう。
「胎児が原発によって障害を負わされた」ことを 悲劇のように かたるのは さける。そして、同時に、「胎児が原発によって障害を負わされた」の責任を とう。あくまで淡々と問題を 指摘する。野崎さんは、それで いいのだと主張しているのでしょう。けれども わたしは、それは優生思想だと感じてしまう。
あるていどの優生思想は さけられない、ということなのだろうか。
ここで明確に いえることは、健康被害や「障害を負わされる」ことを 悲劇のように かたるべきではないということです。
原田正純(はらだ・まさずみ)さんは『水俣病は終わっていない』で、つぎのように のべています。
私は前著の『水俣病』でも、青林舎の映画『医学としての水俣病』でも、水俣病とはいかに恐ろしいものであるか、再びくり返してはいけないことを強調するあまり、患者たちが、とくに胎児性の患者たちがいかに一桁の計算ができないか、字が書けないか、動作が拙劣か、何もできないかを強調しすぎた。そういった時代の背景や要請があったにしろ、また、そのことが厳然たる事実であるにしろ、今、私はそのことを恥じている。失われたものもきわめて大きい一方で、残されたものの美しさ、素晴らしさにもう少し目を向けるべきだったと思う。胎児性の患者たちは五体満足な人間の持ち得ない深いやさしさとするどい感受性をもっている。計算ができること、日常の生活の上手下手をはるかに越えた人間のすばらしさ、無限の知恵を教えてくれた。この子たちは本当に人類みんなの宝子たちであった。
(127-128ページ)
この反省は、とても重要だと おもいます。ただ、わたしは、「五体満足な人間の持ち得ない深いやさしさとするどい感受性をもっている」という肯定を 評価しません。「ほめたら いい」というものではないからです。評価を ひっくりかえせば いいというものではないからです。問題は、関係のありかたにあります。評価する側と、評価される側を 固定し、自分を 評価する側に位置づけることが問題なのだと おもいます。
さいごに、わすれてはいけない歴史を ふりかえってみたいと おもいます。
日本では、1997年ごろに、すくなくない障害者にたいして おこなわれてきた「強制不妊手術」が問題化されました。そのとき あきらかになったのは、子宮摘出手術などのほかに、放射線(コバルト照射)による不妊手術のことです。被害者は、今でも放射線による後遺症に くるしんでいます。
証言者である佐々木千津子(ささき・ちづこ)さんは、手術のことを つぎのように いっています。
一週間続けないと効き目がないと言われて、七日間毎日やりました。
やったあとは、苦しくて気持ち悪かった。病院に行くと、「気分が悪くなっただろう」って聞かれました。前もっては言ってくれなかったです。…中略…
私は、「生理をなくす手術」とは知っていたが、子どもが産めなくなるとは知らなかったのです。
(『優生保護法が犯した罪―子どもをもつことを奪われた人々の証言』27ページ)
当時の医学会は、障害者の権利を かろんじるだけでなく、放射線による健康被害を あまく みていたのです。
「介助の 手間が かかるから」といって、「生理を なくす」。そのために、つよい放射線で 被曝させる。日本は、そのような社会だったのです。この歴史を 反省することから出発するべきなのかもしれません。
今でも、被曝による影響を 過小評価する医療関係者が みられます。これまで、原発で被曝した労働者への労災は、ほとんど みとめられてきませんでした。
今後、原発事故と被曝による賠償の「線ひき」によって、あらたな分断が うまれてしまうかもしれません。
原発は、立地を きめて 建設するときから、賛成派と反対派で 地域を 分断し、きずなを こわすものです。
原発は、事故が おきたときの賠償金を 最小限に おさえるために、過疎地に つくられます。そこで、大都市の電力を 地方が供給するという構図が つくられます。
このように、原発は、さまざまなかたちで ひとを 分断するものです。そのような原発に反対するのであれば、反原発運動のなかで 差別による分断を うみだしてはならないはずです。障害者差別を くりかえしてはならないはずです。
関連リンク:
- 米津知子(よねず・ともこ)「脱原発と、障害の「恐怖の象徴」からの解放――これは、同時にできるはず」(PDFファイル)
- 真野京子(まの・きょうこ) 2005 「放射線照射による不妊化とその時代」『種智院大学研究紀要』6、30-43
- 原子力発電(所)と障害(者)|Nuclear Power and Disabled People
- 反原発と障害者差別――AERA最新号より - 本の備忘録
- 原発反対と障害者 - 本の備忘録