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「ほとんど おなじ」と「ちょっと ちがう」。

 7月9日の土曜日に教育の境界研究会というところで、ともだちの すぎむらなおみさんの はなしをきいた。はなしに参加したというのが ただしい。参加型のワークショップのようなかんじだった。


 題は「「特別」扱いと「ふつう」扱い」というもの。興味のあるひとは『発達障害チェックシート できました―がっこうの まいにちを ゆらす・ずらす・つくる』生活書院を よんでください。


 アスペルガー症候群の こども。親は いじめられるかも、学校生活に うまく適応できていないと感じている。それを 担任に つたえる。担任は みんなと おなじですよ。ふつうですよという。


 つまり、担任にとっては「ほとんど おなじ」なのだ。そして、いじめが おきるとき、「ほとんど おなじ」は「ちょっと ちがう」に変換されている。


 異文化コミュニケーションを 例に かんがえてみる。


 異文化コミュニケーションは、「文化が ちがう」ことに焦点が あてられている。けれども当然のことながら、両者は「おなじところ」「にているところ」を 共有している。だって人間なんだもん。あらゆる点で ちがうなんてことはない。


 学校の教員が「特別あつかいはしません」ということがある。それが平等だという主張である。けれども、たとえば特別支援学校で、そういうことが いえるだろうか。そもそも人員配置が ちがう。それは個別対応が必要だからだ。


 みんな おなじ。特別あつかいはしない。そういうことが いえるのは、分離教育をしているからだ。いろいろな「特別あつかい」が必要な学生を 排除したからこそ、均質な教室が誕生したのだ。そして、均質だと おもわれてきた「普通学校」にも、多様性がある、特別なニーズがあるということを ふまえたとりくみが、特別支援教育だったのだ。しかし、特別支援教育が はじまっても、これまでの学校の わくぐみは ほとんど変化していない。だからこそ、「特別あつかいはしない」という はなしになってしまう。

 教育の理想は、学習支援であり、個別対応だ。その原則に たちかえるなら、できる範囲で「特別あつかい」を どんどんしていくべきだ。


 「ほとんど おなじ」と「ちょっと ちがう」。


 「ちょっと ちがう」ことが いじめの対象にならないようにするには、どうしたら いいのだろうか。


 「ほとんど おなじ」でも、教室のなかで こまっている現実を どのように つたえていけば いいのか。こども個人の問題にしてしまわずに、学校や教育のありかたを といなおすかたちで、どのように かえていけるのか。できることは、ささやかな工夫を 実践していくことだ。


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