国民という差別。
言語政策学会のシンポジウムで李洙任(り・すーいむ)さんの報告を きいた。李さんには『グローバル時代の日本社会と国籍』という田中宏(たなか・ひろし)との共著がある。
李さんの報告の題は「移民コミュニティの移民言語教育―オールドカマーを中心に」であり、「国民」と「外国人」という規定の問題を指摘していた。
おなじような内容を 最近、サイトに のせたので、紹介しておきたい。
「国籍ってなんだろう―日本の入国管理政策の問題」 - あべ・やすし
さて、李さんの報告にたいして、フロアから つぎのような発言があった。要約する。
わたしも法律の国民という表現について問題だと感じていた。だが、あるとき法律の専門家に「文言説」と「性質説」のちがいをおしえてもらった。つまり、法律の文言では「国民」とあっても、じっさいの運用では その「国民」には「外国人」が ふくまれるのだと。それをきいて、国民という語について問題を感じなくなった。
だいたい、そのような発言だった。
なにを いってるのか。ふざけるなと いいたい。
文言説と性質説の区別は、じっさいに国籍条項が法律によって規定されており、じっさいの運用でも差別があるとき、それを是正するために使用するべきものである。
「国民」と「外国人」という法律のことばを批判する議論をおさえこむためであってはならない。
たとえば、多文化・多言語コミュニティ放送局として活動している「FMわぃわぃ」は、電波法の国籍条項を批判している(「コミュニティ放送の運営から除外される外国籍住民―電波法の外国人差別を正す」 - FMわぃわぃ)。
このような具体的な問題を解決するために、「性質説」による運用を もとめるべきなのだ。
国民という語は、あきらかに問題であり、差別を うみだし、正当化するものである。けっして、ゆるすことはできない。
「国民、コクミン」、うるさいんだよ!
参考リンク
- 李洙任 2009 「日本における多文化共生の実態」『龍谷大学経済学論集』49(1)、303-318
- 田中宏 2007 「日本の戦後処理と国籍問題」『龍谷大学経済学論集』46(5)、135-141
- 近藤敦(こんどう・あつし) 2001 「在留特別許可の展望と課題―性質説から立憲性質説へ」『法政研究』68(1)、271-296