hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

たすけない。孤立させる。そんなテストは もう いらない。

 テストは なぜ、ひとりで こたえないといけないのか。たすけあっては いけないのか。わからないところを おしえてもらっては いけないのか。「カンニングは いけない」とか、うるせえ!


 わからないとき、わからないと いう。おしえてほしいことを、おしえてくださいと いう。それって だいじなことでしょう? まちがっているかもしれないと不安になり、確認したいというとき、ちょっと だれかに きいてみる。そういうのって、だいじでしょう?


 ひとり。もくもくと。だまって。自分のちからで。なんで そんなことばっかり。
 自分で べんきょうして、それをテストして、これが わたしの点数。わたしのもの。ほんとうに そう?


 いっしょに べんきょうしたのに、テストするときは どうして個別テストなの。カンニングしたら点数おまけしてもらうくらいで いいじゃないか。だって がんばってるじゃないか。


 協力しあって こたえを さがす。みんなで しらべて、かたちにする。それでも いいじゃないか。


 そして、テストの点数というのが、給料明細に つながっていくのだわ。わたしは これだけ しごとをした。そのぶんの給料。なんか いやなの。そういうのって。たいていは、「ひとりだけの しごと」じゃないんだもん。役割分担してるんだから、わけあってるんだから、みんなのもの。みんなの給料。それを わけあうだけ。


 わたしたちは、ひとりじゃない。たすけてもらって いい。てつだってもらって いい。わからないときは おしえてもらえば いい。そういうメッセージを、どんどん つたえていきましょうよ。



 てつだわない。しらんぷり。孤立させる。そういうのは、もう うんざり。いいふるされた ことばかもしれない。だけど、だれも ひとりで いきてなんか いないのよ。


 だれかを だしぬこうとか、やっつけようとか、そういう気分で もりあがることも あるでしょうよ。けどね。かちまけ だけじゃ いきていけないわ。


 いちいち あたま さげなくても、ちょっと おねがい。それだけで てつだってもらえる。そういうのが みたいの。


 「お礼は いらないよ。あたりまえのことだからね。」 そういうのが もっと みたいの。


 いま常識とされてる「テスト」って害悪だわ。偏見を うえつける。わたしたちを 孤立させる。

  • 肥後弘一(ひご・こういち) 2000 「コミュニケーション障害を産み出す見方」大石益男(おおいし・ますお)編『改訂版 コミュニケーション障害の心理』同成社、37ページ。

“できない(依存)”と“できる(自立)”の間には…“いっしょに◯◯する(共同性)”という世界が豊かに広がっている。


 相互作用。共同性。そういうのを たのしみたい。



 ねえ、ヒント! ヒントおしえて。どんどん きいちゃえ!

 ここに、箱いっぱいに 豆が はいっています。箱を ひっくりかえします。ばらばらばらー。豆が ぜんぶ おちちゃいました。


 さて。


 さあ。豆にも 箱にも さわらずに、豆を ぜんぶ 箱に もどして!



 どうすれば いいと おもう? かんがえてみて。

 これを、自分ひとりに だされた課題だと おもってしまうから、「豆を ひろってください」と おねがいできない。自分で どうにかしないといけないと おもってしまう。あなたが しなくて いいことだって あるの。やってもらえば いいことだってあるの。いちいち あたま さげなくたって いいの。


 てが とどかないなら。さわれないなら。とってもらえば いいじゃない?


 きらくに いこう。のびのびしよう。深刻ぶらないで いいのよ。さあ、緊張を ほどいて。かわらに ねころびましょう。……え、あ。もういいって?(笑)。



  • 森毅(もり・つよし) 1977 『学校とテスト』朝日選書。

 大学ではぼくは、他人の答案を見ることを奨励することさえある。わからんかったら、わかってそうな人間を捜して教われ、教わってもわからんかったらわかるまで教われ、なんて言って回ることもある。
…学習というのが「テストの始まる瞬間より以前の学習」に限定されているのもよくないと思う。それならば、一定の用紙に用意された「カンニングペーパー」の使用を許可したらよさそうなものなのに、それも持ってこさせないのは、ぼくには理解できない。
 試験場へ来てからの学習の手段を奪われているから、「試験とは準備するものだ」というのが常識となり、「試験の準備としての学習」というのが「教育の通念」になってしまうのである。トレーニングとしての準備といったものはあるにしても、試験の主流は「ふだんの学習」と近い形態、わからないところは調べたり教わったりして学習する余地を残すことにすれば、テストのイメージは随分と変わるはずである。
 このような場合には、テストの問題自体の質も当然に変わってくるだろう。このような形態に耐えられないようなテストの「問題」とは、一体何をしようとしているのか問い返されてよい。…中略…
 そしてまた、このようなテストが主流を占めるようになれば、今までの「教育」はテストに従属していたから、教育の質自体にも根本的再検討を迫らずにはおかないだろう。

(23-24ページ)


 再検討すべきなのは、教育の内容だけに とどまらないよね。分離教育だって、といなおさないと。学校という施設に おしこめることだって といなおさないと。学校に いかないと学習できないっていうシステムも といなおすべきよね。


 分離教育から、インクルージョン教育(排除しない教育)へ。そして、教育から「学習支援」体制へ。学校という施設に限定しない。学齢だけに とどめない。学生だけに限定しない。必要な ひとに、必要な時間に、必要な場所で。


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