hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。

 動物園や水族館で「いってはいけない」ことばがあるそうだ。それは、「おいしそう」だという。なぜそれが、いってはいけない ことばなのか、わたしには理解できない。


 ここに単純な事実がある。肉を たべるということは、動物を ころすということだ。肉が たべたいということは、動物を ころしてでも たべたいということだ。ころしたくはないけど たべたいということは、それこそ「いってはいけない」わがままであるはずだ。動物を ころして たべる。それが、肉食者の日常なのだ。


 わたしも消極的にだが、肉を たべている。だから わたしは動物を ころしていることを わすれるつもりはない。動物の死体を 加工したものが 肉料理である。それを おもいだしたり想像するのが いやならば、肉を たべなければ いいことだ。平気で動物を ころすことができるから、肉を たべているのだ。平気で ころせないなら、なれるまで、平気で ころせるようになるまで動物を ころしつづけてみるべきだ。


 それができないなら、肉は たべなければ いい。たべるべきでもない。ものすごく単純なことだ。



 肉を どうしても たべなくてはならない必然性など ありはしない。肉食を やめられないということも、物理的に ありえない。それは たくさんの脱肉食者が証明している。


 肉食を たべるのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。その事実から、にげることはできない。わたしは、「そのとおりだ」「動物を ころしてでも たべたいから 肉を たべるんだ」という反応を 期待している。それが、肉食者として当然の反応だと おもうからだ。



 もしかすると、わたしはマッチョなことを いっているのかもしれない。もし そのように感じた ひとがいれば、そのとおりだと おもう。これまで あまり紹介してこなかったけれども、『肉食という性の政治学フェミニズム-ベジタリアニズム批評』という本を わすれたわけではない。マッチョな わたしの文章に いやな気分を あじわった ひとは、ぜひキャロル・J. アダムズさんの『肉食という性の政治学―フェミニズム-ベジタリアニズム批評』を よんでみてほしい。


 ただ、ひとつ いいわけさせてください。マッチョなのは肉食であって、それを 指摘する わたしではないはずです。いかがでしょうか。


追記: よければ、つぎの記事と あわせて よんでください。肉食とは、動物を ころすこと。だから、屠場(とじょう)という空間がある。そのことを わすれてしまっているし、屠場で しごとを している ひとたちが 差別されている現実がある。そのことを といなおしていきたいと おもっています。