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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「セクシュアルマイノリティ傾向」ですって?

 1ヶ月まえのことですが、障害学会第6回大会(障害学会・2009)に いきました。いろいろと かんがえることはあったのですが、ひとつ「ええー」と感じたことについて。


 うえの報告原稿にも でてきますが、「セクシュアルマイノリティ傾向」という表現に とまどいました。おかしな表現だと感じました。引用します。


2.“男が好き、男性と女性をはき違えている”(Bさん:男性・60歳)
 セクシュアルマイノリティ傾向があるBさん。同じGH内に好意を抱くUさん(30代男性)と担当職員Iさん(30代男性)がいる。Bさんの自室には、Uさんの写真が数多く貼られており、その思いの強さがうかがえる。15歳から施設へ入所、その後35年間施設で育った。32歳の時に、友達(男性)との性体験をカミングアウトするBさん。それ以来、女の人との性体験を知らず生きてきた。


 「自分を安定させたりしてるんだけどねー」と、自室に写真を貼るのは「安定」させるためと語る。恋愛についてたずねると、「僕はそのへんはき違えて、ホモって病気持っちゃったんですよー。男好きになって、男と抱き合っちゃったりー、男といろいろしちゃいけないことも(・・・)。でも、やりそこなって、たまたまエイズにはならなかったけど」と、あっけらかんと話Bさん。しかし、「本当だったら女性が欲しい。だけど、女性はなかなかいないんだよねー」というような語りも。また、「親がいなかったから、親の関係でそういうふうになってんじゃないか、ってMさん(GH長)も言うんですよー。親代わりになっちゃうんだってー。面倒みてあげたくなっちゃうんだって。それが理性が収まりきれなくなっちゃうと、抱き合っちゃうだってー」と支援者の解釈を語る。今、Bさんを応援してくれる人は、駅のそばの酒屋のおばちゃんで、その人には、「自分はこういう人間だ」と全部正直に話しているBさん。


 「Bさんの語り」から、性的指向は男性? 女性? それとも両性? アンビバレントな語りを繰り返すBさんの<わからなさ>。やはりこれは知的障害だからなのであろうか。「親がいなかったから、親の関係でそうなった」という支援者の解釈を語り、Bさんなりに説明付けをしようとしているが、このアンビバレントな語りそのものがBさんのセクシュアリティなのではないか


 バイセクシャル、あるいはバイセクシャル的だというのを「セクシュアルマイノリティ傾向」と表現されています。これの どこが おかしく感じるのかを 論じるまえに、すこしだけ うえの引用文へのコメントを。


 まず、Bさんのようなひとは、たくさんいるということ。「キンゼイ リポート」なんかを かんがえても そうですよね。「キンゼイ リポート」について くわしいわけではありませんが。


 『愛についてのキンゼイ・レポート』というのは映画です。



 同性愛嫌悪のある社会でも、バイセクシャルな行動は、よくあるわけです。同性愛嫌悪が あまり意識されない ひとや空間であれば、なおさらです。また、同性どうしで生活している空間であれば、それまたバイセクシャルな行動は、よくあります。当然ですし、ありふれたことです。刑務所についての本を よんでみても、そういったことは よみとれます。
 さいごに「このアンビバレントな語りそのものがBさんのセクシュアリティなのではないか」とありますけど、そういうもんですよね。



 バイセクシャルというカテゴリーというのは、異性愛主義の産物です。「異性を 愛したり、異性とセックスをしたいのが あたりまえ、そうあるべき」という異性愛主義が、「同性愛」を 客体化し、きわもの あつかいする。そして、そのあとで、「ああ、どっちでもいいって ひとも いるらしいぞ」ということで、バイセクシャルもまた客体化され、おとしめられる。


 そうすると、同性への興味が 抑圧されるようになる。こどものころは だきあったりしてたのに! ほっぺに ちゅっとされて、きゅーーーってなるのは、性別なんて関係ないのに!!!!! (おまえだけとか、いわないでくださしあいしあいあ)


 ええと。本題に はいります。


 わたしは、しつこいです。なんども強調しますが、「マイノリティは、ただマイノリティなのではない。 マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ」ということを わすれてはなりません。この社会の どこかに「マイノリティ」という実体が存在するわけではありません。マイノリティは、うごかないものではなく、うごくものです。状況しだいです。状況を かえれば、平等な関係を きづきあげたら、だれかを 「マイノリティ」と みなす必要もなくなります。自分がマイノリティであると自覚することがなくなるわけですから。


 むずかしい表現を よくしらないのですが、なんて いいますか、「実体概念/関係概念」?


 たとえば同性愛者やバイセクシャルが「セクシュアルマイノリティ」というのは、社会が「マイノリティにしている」わけです。異性愛主義という差別によって。


 そして、ペニスのある ひとが ペニスのある ひととセックスする、あるいは、オトコのように ふるまっている ひとが オトコのように ふるまっている ひとを 愛するというのは、そのひとが そういうふうにするわけです。そのひとの自由のもとに。


 「傾向」というのは、「そういうところがある」ということです。いってみれば、あいての性別に こだわることが あんまりないということです。そして、そういう傾向があることが「傾向」などと違和感なく表現されてしまうのは、この社会で異性愛主義が ふんぞりかえっているからです。それは、つぎのフレーズを みれば わかるかもしれません。

異性愛傾向のあるAさん」

 どうでしょうか。わざわざ「異性愛傾向」なんて いいませんよね? どうして?? それは、「異性愛が当然」という社会に いきているからです。


 でね。「セクシュアルマイノリティ傾向」。ひどいよ。そんな表現をしなくたって いいじゃないの。バイセクシャルが「セクシュアルマイノリティ」とされる「傾向」があるのは、異性愛主義社会によるものです。それを、本人の特徴のように表現しますか?


 ちゅうとはんぱな問題意識で 「適切な表現」を つかうと、おかしなことになるということかもしれません。


 障害学というのは、社会のありかたによって、なにが障害とされるかは かわってくるという視点に たちます。あるいは、障害とは個人の属性などではなく、さまざまな からだのありかたを 想定しない社会構造が うみだした障壁のことだと主張します。そういう理念による障害学を やるのであれば、セクシュアリティについて論じるときも、社会的な視点を きちんと もっておいてほしいのです。


 ある ひとの ふるまいが「セクシュアルマイノリティ傾向」とされるのは、社会の都合です。「セクシュアルマイノリティ」というのは、社会のありかたを といなおすための表現であるはずです。これは、わたしの かってな想定でしょうか。そうだとは おもいません。
 「セクシュアルマイノリティ」という社会的な表現、関係的な表現に「傾向」という表現を くっつけるのは、軽率だと おもうのです。
 この問題は、軽率な表現というだけで こんなに ながい文章にするほどのことではないのかもしれませんし、杉崎さんには もうしわけありませんが。


 けれども、杉崎さんが つぎのような問題意識から出発しているのであれば、ちょっと かんがえてみてほしいのです。


知的障害当事者は、長い間<無性の存在>として扱われてきた経緯があり、社会全体としても、未だに<性的な主体>として認められているとは到底言い難く、言わば、「性的なマイノリティ」、あるいは「逸脱者」としてのレッテルを付与され続けてきたと考えられる。また、知的障害当事者とかかわる現場におけて、当事者のセクシュアリティに配慮した支援は、一部の事業所を除いて、殆どおこなわれていない現状は否定できない事実である。それは、元・支援者の立場にあった筆者の経験からも強く感じる問題意識の一つである。


 「当事者のセクシュアリティに配慮した支援」。わたしも、この問題意識に共感します。そこで おもうのですが、「当事者のセクシュアリティに配慮した支援」を めざすのであれば、当事者の「語り」を ききとり、検証するだけでは不十分なのではないでしょうか。もっと つっこんで検討すべきなのは、支援者の「語り」と そこから うかかがえる支援者のセクシュアリティへの意識や態度ではないでしょうか。支援者のまなざしに注目する方向性に期待したいと おもいます。


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追記:さいしょ わたしは「セクシャルマイノリティ」と表記していたのですが、よく みると杉崎さんは「セクシュアルマイノリティ」と表記としていたので、すべて「セクシュアルマイノリティ」という表記に なおしました。