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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ドキュメンタリー映画『靖国』(ヤスクニは軍事施設だ)。

 わたしは大学生のころ ペキン語(漢語)を かなり べんきょうしました。チューカ料理屋で4年間 バイトしながら調理補助と通訳みたいなことを していたので、それなりに上達しました。


 さて、ペキン語を まなんだことの ある みなさん。中国や台湾にいって、日本人が ペキン語を はなすということが めずらしいというだけで、ほめられたり、感謝されたり、それだけで親近感を もっていただいたり…。たくさんの たのしい経験を したはずです。わたしも そうでした。その一方、日本人が だれかに、日本語を べんきょうしてくれて ありがとうということは、かなり すくないように感じます。西洋人が べんきょうすると、にやにやしながら おもしろがる ひとも いますが。


 さて、ドキュメンタリー映画の『靖国』。異様な別世界のような きもちわるい空間。それが靖国神社です。わたしも一度いきましたから、よく わかります。ここに、たくさんの ひとたちが無断で勝手に合祀(ごうし)されています。「戦争にいけば神さまとして靖国神社で まつられるんだ」。がんばってくれ。ありがとう。そんな ふざけた ことばで、戦争に かりだされた ひとが ほんとうに いたのでしょうか。わたしには わかりません。けれども、いやで いやで いやで しかたがなくとも、戦争に いかせた。特攻隊にさせた。それが日本軍でした。それが帝国日本のやったことです。そして、たくさんの ひとたちを ころした。戦争するということは、だれかに主体があるものです。けっして、「終戦」などというものはありません。戦争する主体があるのだから、終戦ではなく、敗戦なのです。そしてもちろん、とっとと敗戦するべきであるし、そもそも戦争など、してはならないものです。当然のことです。


 靖国神社は、過去を うつくしく「ふりかえる」ためにあるのでしょうか。そうではないはずです。ヤスクニは、「これから」のことを かんがえています。「名誉の戦死」に 「ありがとう」というために。いえ、「いのちを かけて戦争にいけ!」というために。それが国家の論理です。それが日本という国の現実です。ヤスクニに参拝して、平和を ねがうなど、ありえないことです。いってみれば わかることです。戦争したくて たまらない ひとばかりが あつまっているではありませんか。それを、映画『靖国』を みて確認してみてください。


 さて、映画の内容を くわしく紹介するのは上手ではないし、それほど すきではありません。ただ、ひとつだけ。ペキン語を まなんだ日本人は、ぜひ つぎの文章を じっくり よんでください。そして、映画『靖国』を みて、何度も何度も うけとめてください。日本人が うけとめるべき ペキン語は、つぎのような ことばであるはずです。


刚刚的意思就是说,你还在呼吸吗?如果你还在呼吸的话你就应该把你的手放在你的良心上!我再问你一个问题:如果你的父亲,死在我们台湾的话,你会不会让他回来?如果你的心脏还在跳,我相信你的做法跟我们是一模一样的。你要非常地清楚知道,我们不是日本人。我们当然有权利把我们的祖先、把我们的长辈带回台湾去!泰雅族的祖灵不会饶过你们。在他们生的时候没有办法选择自己的自主意识,死掉以后,你们更不能剥夺他们的灵魂!你们如果真的懂得“神道”的话就应该更尊重别人的文化精神。所以你们是假装的“神道”,根本不懂人真的灵魂是什么!人虽然死掉了还是有尊严的。所以我希望你把这样子的话,告诉你们上面的人,也告诉,也告诉你自己的良心。你们今天的态度让我们非常地不满意!我们坐了这么远的飞机来,这是第七次来到这边。你们不要以为今天不解决,以后我们就不来了!我告诉你们,我们还会再来。
靖国神社--王代赟的博客より。)


 台湾の先住民(ユエンジューミン)であるタイヤル人の チワスアリ(タイヤルの なまえ)/ガオジン・スーメイ(ペキン語名)さんの ことばです。チワスアリさんは、あまりにも当然ことを うったえています。「もしあなたの父親が台湾で死んだら、あなたは父さんを かえらせるはず。ちがう? もし、あなたの心臓が まだ うごいているなら、あなたは、わたしたちと まったく いっしょのことを するはずだ」。


 うえに引用した ことばのまえに、「わたしらは日本人じゃない。わたしらはタイヤル人だ」と おっしゃっていました。「ウォーメン プーシー リーベンレン(women bushi ribenren)」。たくさんの ことばを正面から うけとめて、ヤスクニを 解体する。それが「日本人」という国民であることの責任です。それまで、チワスアリさんに、たくさんの ひとたちに、あわす顔が ないのです。


 さいごに、矢部史郎(やぶ・しろう)の ことばを かりよう。

靖国神社であれ、別のかたちのものであれ、戦没者の追悼施設は戦争を遂行するための施設であって、首相の靖国参拝問題は、過去の歴史認識を巡る問題である以上に、現在と今後の戦争にかかわる問題である…中略…靖国神社の存在そのものがひとつの軍備であり、公人の靖国参拝が戦争準備行為であるという客観的な事実を見逃すわけにはいかない。
(『愛と暴力の現代思想青土社、87ページ)



靖国神社皇軍の自爆攻撃を可能にし推進したきわめて危険な軍事施設なのだから、誰が祀[まつ]られていようと、また誰が参拝しようと、靖国神社が存在すること自体が許されない。不戦を誓うという首相の言葉が真実ならば、いま生きている者とこれから生まれてくる者のために、靖国神社を廃絶する特別立法案を提出し、海外に派遣している自衛隊をすべて撤退させるべきだ。
(88ページ)


 ヤスクニは戦争のためにある。人間のためにあるのではない。ヤスクニは国家のためにある。国民のためにあるのではない。そして、それを ごまかす「国民」は、暴力を 実践するものでしかない。いつまでも加害者だ。


 被害者づらは、いいかげんにしろ!


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