hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

集団に あまえて 罪悪感を ごまかすな。

 集団は、こわい。


 わたしも、あなたも なんらかの集団に属している。ある視点に たてば、こんな集団に。自分で はいった このグループに。あるいは、なになにという属性に属すという意味で。

 人間は、ひとりなようでいて、そうでもない。集団で 活動している。集団に ささえられている。集団に同化している。そして同時に、ある集団から距離をとっている。ひとりであろうとすることもある。


 めに みえるかたちで、集団で うごいているとき、自分の意思や行動というものは、その集団に同意し、同化しているかぎりは、めだたないものです。自分の やることなすことは、ちいさなものに感じられます。


 集団との葛藤(かっとう)が すくなければ、感覚も よわくなります。さまざまな感覚が。

「赤信号、みんなで わたれば、こわくない。」

 集団にも、いろいろあります。なにかに ささえられている集団。数のうえで圧倒的な集団。権力が支配的な集団。その状況では つよい集団。


 けれども、「集団」なんてものは、あって ないようなものです。それは個人の集合でしかありません。「集団の意思」というものは、ことばどおりの意味では ないはずです。けれども、「集団は暴走する」ということが いわれたりもします。なぜでしょうか。それは、それぞれが おたがいに同化してしまうからです。そうすることによって、自分の意思が かくされてしまう、いえ、「自分」が かくされると サッカクするのです。

「みんなと いっしょなら、こわくない。」

 これは、健全なことでしょう。


 それでは、つぎの発想はどうでしょうか。

「ひとりで死刑制度を せおうことはできない。だから、みんなで責任を分担するのだ。」

 これは、発想というよりも 日本の現実です。すでに「だれも孤立させない。同時に、集団のインチキで ごまかさない。」という記事に かきました。


 わたしは、このような役割分担を ゆるしてはいけないと おもいます。とはいっても、わたしもまた、このような気もちになって「自分の意思」を ごまかし、集団に同化してしまうような、たいしたことのない人間です。むねを はれるものではありません。わたしのテキは、わたしです。



 けれども、それでも わたしは死刑廃止を のぞみます。それでも わたしは、日本の国家主義を ゆるしません。天皇制を ゆるさないし、戸籍制度を ゆるしません。ヤスクニも日の丸も、存在することそのものを ゆるしません。


 国家の権力によって わたしに命令したり、わたしを 否定したりするものを ゆるしてあげるつもりはありません。


 ほとんどウェブ上で話題になっているだけなので、しらないひとも たくさん いるでしょうが、数年まえから活動している「在日特権を許さない市民の会」という集団が、ここのところ 日本の あちこちで デモ行進をしています。在日朝鮮人や中国人などをターゲットにして、あからさまに、「たたきだせー」などとシュプレヒコールを連呼しているのです。まちなかで差別発言、排外主義のスローガンを さけびつづける集団です。


 この集団が、9月27日に秋葉原(あきはばら)でデモをするということで、わたしの愛する ツネノさん(id:toled)が対抗に いきました。差別発言のシュプレヒコールに対抗する声をあげたり、「排外主義 反対」という紙をもって たつ、といった抗議活動です。


 すでにウェブの あちこちで話題になっていますが、この集団は つねのさんの紙を とりあげ、そして集団で つねのさんに攻撃した。攻撃した側が ユーチューブにその動画を 公開するという、理解しづらい情報公開をしたため、つねのさんが一方的に攻撃される映像を 確認することができました。つねのさんは「暴力を否定しない」と よく いっているのですが、思想は そういう思想なのに、性格は あまりにも おだやかなので、いざ「暴力革命だー」というときにも、たよりにならない気がします…。でも、そんな つねちゃんが だいすきです。



 はい。今回、わたしが いいたいのは、ここからです。


 さきに かいたとおり、集団は おそろしいものです。その一例が、今回 ツネノさんを 攻撃した ひとたちと いえるでしょう。ですが、ちょっと まってください。まず第一に おそろしいし、ゆるせないのは排外主義の政策をつづけてきた日本政府であるはずです。


 たとえばテッサ・モーリス‐スズキ『北朝鮮へのエクソダス』を よんでみれば、日本政府が ずっと排外政策を とってきたことが よく わかります。「市民」が なにを やろうと、それは日本政府の政策に同化しているだけのことです。ほんのすこしだけ その日本政府が かわる気配があるから、排外主義者が あたふたしているということです。


 もし、わたしが、あなたが「在日特権を許さない市民の会」の行動を みて「おそろしい」「ゆるせない」と感じたならば、その背後にある 日本政府に 気づく必要があります。そして、日本政府が これまで やってきたこと、やっていることを「わたしは ゆるさない」と、はっきりと表明するべきだと おもいます。


 あの集団が「暴力を ふるった」から ゆるさない、わるいというのは、都合よく「トカゲのしっぽ」を きりおとしているだけのように感じます。身体的な暴力を ふるうまえから、あの集団が やっていることは わるいのです。そして、あの集団が できるまえから、日本という天皇制国家は おぞましいのです。つねちゃんは、つぎのように かいています。

在特会を例外的な絶対悪として切り捨てたり、彼らの未熟さを嘲笑うことは、日本というもの自体の暴力や、「一般の」日本人の責任を曖昧にしてしまうでしょう。

日の丸充なう - 登校拒否への道(とうこうきょひへの みち)より)


 なかには、「わたしも外国人参政権には反対だけど」と いいながら あの集団の行動を 批判するようなコメントも ありました。わたしからすれば、外国人参政権に反対のような ひとは、「ひらきなおった「みにくい日本人」」の ひとりでしかありません。


 天皇制を つぶす その日まで、日本の排外政策を すべて やめる その日まで、わたしもまた「みにくい日本人」の ひとりです。けれども、だからこそ、わたしは日本の排外政策に反対します。「「外国人」を 都合よく つかいまわす」という日本の政策を ゆるしません。



 はてなブックマークも、ひとつのウェブページが たくさんの ひとにブックマークされるとき、やっぱり そこにも集団の ごまかしが でてくることがあります。「どさくさに まぎれる」ということです。


 その一例が、ツネノさんが あの集団を「挑発した」というコメントです。どさくさに、ただの抗議行動を「挑発」などといって印象を操作する。こういう やりくちも、やっぱり ゆるせないものです。


 挑発というのは、相互行為です。なにが相手にとって挑発になるかは、わからないものです。だから、ただ「反対」という紙をもって抗議するというだけのことでも、「挑発」と みなす ひとは、みなすのでしょう。とはいえ、挑発というのは 否定的なニュアンスのある表現です。あたかも客観的な事実として「挑発」という表現を つかうことはできないのです。主観的で否定的な解釈として、「挑発」という表現を えらびとっているのです。


 むずかしいことですが、たくさんのコメントのなかの ひとつとして位置づけるのではなく、「対話」としてコメントを かくならば、「挑発」という ことばは、えらばないでしょう。「挑発」という ひとは、とおまわしに つねのさんを ことばで攻撃したいという欲求があるのではないでしょうか。


 批判したいなら、すれば いい。けれども、どさくさに まぎれて印象を操作したり、攻撃的なことを いうならば、「集団に あまえている」「集団のインチキで ごまかしている」ということです。そして、それは 今回、あの集団が ツネノさんに やったことと おなじです。


 集団に あまえない。それは、ほんとうに むずかしいことです。けれども、だからこそ わたしは「自分の罪悪感を 分散させるために 集団に あまえる」ことがないように 気を つけたいと おもいます。


 そして、社会を よりよくするために、たすけあって いきていきたいと おもいます。



 「在日特権を許さない市民の会」を みて おぞましいと いいながら、たとえば 難民の うけいれを 最小限に おさえつづけてきた日本政府に なにも感じないような感覚は、ゆがんでいると おもいます。さあ、いまこそ平等思想に めざめるときです。 一歩 あゆみだせば、あらゆる不平等が 気になるようになります。最初の一歩が たいせつです。あからさまな差別を みて、おかしいと感じましょう。そして、平等への みちを あゆんでいきましょう。


 集団は、ときとして おぞましいものです。そして、排外的な国家に同化した「国民」は、いつも おぞましいものです。


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