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ヤスクニは宗教的に ふるまうことで機能する軍事施設である。

 ヤスクニは軍事施設である。それは、たくさんのひとが指摘してきたことだ。はじめて きいた意見であるなら、「靖国 軍事施設」で検索してほしい。


 戦前において靖国神社は、陸軍省海軍省が共同で所管し、天皇自らが戦没者の霊を祀る[まつる]ためにしばしば親拝(天皇自らの参拝)するきわめて特殊な、天皇の国家の戦争政策と切り離すことができない神社であった。靖国神社の責任者である宮司には退役陸軍大将があたり、神社の運営費は陸軍省予算から支出され、社域の警備には憲兵があたっていた。
(238-239ページ)


 ヤスクニは、だれを まつったのか。


…祀られた戦没者は、日本人であっても、あくまで天皇制政府側に限られ、戊辰[ぼしん]戦争における旧幕府側や西南戦争における薩摩[さつま]側の戦没者、あるいは佐賀の乱竹橋事件などにおける反乱者(処刑者)などは除外されている。この点から、東京招魂社・靖国神社における「招魂」「慰霊」という行為は、あくまでも政策的な行為(天皇側の戦没者の顕彰[けんしょう]行為)であり、死者一般の鎮魂というものとは性格を異にするものであることがわかる。
(239ページ)


 ヤスクニは、「戦争に いけ!」と命じるときに、都合のいい物語を うそぶくことで、「やる気」を おこさせた軍事施設である。いくら「英霊」だと まつられてみても、戦争に いかされ、そして犬死にしたということに、かわりない。手を あわせるのは、まつっている側の自己満足にすぎない。


 そして、手を あわせることで、背中でメッセージを つたえるのだ。いきている ひとに むかって。おまえも、このひとたちのように、この「英霊」たちのように死を覚悟して勇敢に たたかってこいと。死んだら、おまえも英霊になるのだと。ふざけたはなしだ。


 「靖国神社は、新たな英霊を生み出す〈英霊サイクル〉の中核に位置づけられた機関であった」ということを、わすれてはならない(241ページ)。


 現在、ヤスクニがニュースになるのは、政治家の参拝と、合祀とりやめを もとめる裁判が ほとんどだ。たとえば、つい先日の2009年2月26日にも、大阪地裁の判決がニュースになった。


靖国神社に「英霊」として祭られ続けているのは苦痛だとして、元軍人・軍属11人の遺族9人が、神社に合祀の名簿から削除するよう求めた訴訟の判決で、大阪地裁(村岡寛裁判長)は26日、請求を棄却した。


 ヤスクニに「英霊」として まつられるのは いやだ。それは、あまりにも当然な主張だ。
 たとえば、ドキュメンタリー映画の『靖国』でも、台湾の先住民のチワスアリさんがヤスクニを 訪問し、合祀のとりやめを 要求する場面がでてくる。その発言を 訳してみた。


さっき いったのは、あなたは まだ呼吸してますかということ。まだ呼吸しているのなら、あなたの手を あなたの良心の上にあてるべき。もう一度きく。もしあなたの父親が台湾で死んだら、あなたは父さんを かえらせるはず。ちがう? もし、あなたの心臓が まだ うごいているなら、あなたは、わたしたちと まったく いっしょのことを するはず。あなたは、はっきり悟るべき。わたしたちは日本人じゃない。わたしたちは当然、わたしらの祖先を、われわれの先人を 台湾につれてかえる権利がある。タイヤル人の祖先の霊は、あなたたちを ゆるすことはない。彼らが いきていたときは、自分の意思で選択することができなかった。死んでしまって、そのうえ、あなたたちは彼らの魂を うばいとる。そんなことはできないのだ。 あなたたちがもし、ほんとうに「神道」が わかるなら、ほかのひとの精神文化を尊重するべき。だから、あなたたちのは偽物の「神道」で、人の魂というものをまったく理解していない。人は死んでも尊厳は のこるもの。だから、このはなしを、あなたの上の人間につたえてほしい。そして、あなた自身の良心に といかけてほしい。

 これは、あまりに当然の要求です。これが みとめられないのは、いまだにヤスクニを つぶすことなく放置している日本の実像であり、本性だということだ。


 なぜヤスクニを つぶさないのか。なぜ、ヤスクニに東京都知事認証の宗教法人などという地位を みとめるのか。


 ヤスクニは、宗教的に ふるまうことによって機能する軍事施設である。ヤスクニを まもる側にとって、宗教は手段であって 目的ではない。死者を まつるのは、つぎの戦争のためのパフォーマンスであって、それ以外の なにものでもない。
 これまでの戦争を 肯定し、これからの戦争を 歓迎する。それがヤスクニというものだ。それがヤスクニに参拝するということだ。それが、ヤスクニをつぶさないでいる日本という国の実像なのだ。


 戦争に反対するのなら、ヤスクニを つぶすべきだ。平和を のぞむなら、ヤスクニを つぶすべきだ。ヤスクニに参拝したい ひとの心情など、尊重する必要はない。


 殺人を 殺人と みとめない。侵略を 侵略と みとめない。犬死にを 犬死にと みとめない。そんな ひとたちの心情を 尊重するのが良心などと、ふざけたことは もう いわないでほしい。


 良心が あるなら、社会を よりよくしたいなら、ヤスクニを つぶすべきだ。


 わたしは、ヤスクニを「宗教施設」として みとめてあげるのが良識だとは おもわない。ヤスクニは、宗教的に ふるまうことで、軍事施設として機能しているのだ。本質を ごまかして、ヤスクニを 宗教施設として みとめるのは、恥しらずな ふるまいだ。


 ヤスクニを つぶす。それを 主張できない日本人を、わたしは ゆるさない。日本人が、ヤスクニを つぶそうという意思を もつ。それは、日本人であることの責任なのだと わたしは おもう。もし、その程度にも「ハンニチ」になれないならば、日本社会が よりよくなることなど、ありえるはずがない。


 日本人は、世界で もっともハンニチになるべきであるし、アメリカ人は世界一「反アメリカ」になるべきだ。



 もう一度かく。ヤスクニを つぶす。それを 主張できない日本人を、わたしは ゆるさない。


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