hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

たくさんの不平等な関係。たくさんの わたしの立場。

 この社会は、平等ではない。不平等だ。それを ただしたい。平等を もとめたい。単純にいえば、それだけのことです。

 じつは、うえの記事は、ほとんどの部分を ファミレスで かきあげました。あるとき 本を いくつか もってファミレスで のんびり本を よんでいたのですが、そのなかにユン・コンチャ(尹健次)さんの『「在日」を考える』平凡社ライブラリーがありました。序論が刺激的だったのです。一部だけ紹介します。


…「日本人」とか「日本国民」という実体は存在していないといって、それらをすべて虚構として放り出してしまっていいというわけではない。現に在日朝鮮人が被差別の存在であるとするなら、その在日はいかなる集団なのか、また在日を差別しているマジョリティはいかなる集団なのか。それを具体的になんと表現すればいいのか。
(27ページ)



 「民族」はたしかに固定不変なものではなく、少なからず虚構を内に含んだフィクションでもある。筆者自身、日本の戦前と戦後の「民族」のありようは少なからず変化しているとも思う。しかし「民族」、あるいはそれと重なりあう「国民」そのものは、痛みを背負い、あるいは痛みを与えてきた実体として、厳然とこの日本の現実のなかに存在し、またアジアや世界の人びとの脳裏に焼きついている。
…中略…
いわば「日本人」は、多数派としての民族的アイデンティティを再生産するのではなく、あくまで弱者・マイノリティとの関係を意識することが不可欠である。
(30ページ)


とくに、「多数派としての民族的アイデンティティを再生産するのではなく、あくまで弱者・マイノリティとの関係を意識することが不可欠である」というところを、わすれないでいたいと おもいます。


 ユンさんは、「もとより、ひとはすべて、この世に生まれてくることを選択できないものである…中略…」として、つぎのように のべています。


つまりひとはすべて運命的な存在ではあっても、実際には特定の歴史や現実を引き受けざるをえない歴史的存在として成長し、生を営んでいく。その際、前世代が築きあげた遺産のうち、戦争責任・戦後責任だけは引き受けられないという論理には無理がある。在日の若い世代も同じく運命的存在ではあるが、この社会では被差別の歴史的存在として位置づけられるのを余儀なくされている。
(31-32ページ)


 とても だいじな議論なので、できれば『「在日」を考える』を よんでくださればと おもいます。


 はなしを もどすと、ファミレスで この本の序論を よんで(そして、本を とじて)、わたしは いっきにアイポッドタッチ(iPod touch)を つかって、文章を うちこんだのでした。そのとき、ともだちと議論したことも念頭にありました。それで「ヤマト人=和人として」と表現したのでした。


 さて、この記事で わたしは「民族の名前を ひきうけよう。民族差別を 解体するために」と かきました。この点については、この記事を かいてから いろんな反応を もらったりしながら かんがえるに、「民族の名前」を ひきうけるかどうかは、どちらでも いいように おもいました。そもそも、わたしは つぎの記事で、つぎのように かいていたのでした。


 全体が日本社会で生活しているひと。そこからマイノリティを ひきざんして のこるのが多数派。和人といわずにすむのは、頭からアイヌを けしているから。ヤマトと いわないのは、おきなわを わすれるから。そう よばれているのに名前を わすれるのは、そもそも むきあってないということ。
 ヤマト人としての自覚が必要だと いいたいのではない。きちんと説明するためには日本人などではなく、ヤマト人という用語が必要になるということ。ほかには、多数派日本人という表現もある。


 民族意識は、支配されて抑圧されて その結果、相互作用として つくられるもの。そういう民族意識を多数派が もってみたところで たいした意義はない。


 では、民族的少数派は どうなのか。


 境界線が恣意的(しいてき)であるということと、いま現に差別があるということは別のことです。そのカテゴリーが恣意的であろうとも、そのカテゴリーは、いま現に差別に利用されているわけです。差別される側として、そのカテゴリーに属している ひとが「わたしたち」を 意識するようになる。


 アイヌというアイデンティティが なぜ意識されるのか。それは排除が あるからです。もし、排除が なければ、だれにも名前はありません。みんなに名前がない。

 ほんとうなら、少数派にしたって「民族」を ひきうける必要などないはずです。けれども、社会のありかたが いやがおうにも意識させている。ユンさんの表現を かりれば、「この社会では被差別の歴史的存在として位置づけられるのを余儀なくされている」。関係が不平等だからです。


 ここで、「関係」とは なんなのでしょうか。


 ひとは、みんなを みんなとして認識して、それで すますわけではありません。そのときそのときで、「みんな」から 「だれか」を きりわけ、他者として あつかいます。区別します。そして、さらに その「他者」を 不平等に あつかうのが差別です。


 こうした問題を かんがえて、自分の できることをする。いまの わたしは、それで じゅうぶんだと おもっています。だれかに要求できるのは、そこまでだという意味です。それは、つぎの記事に かいた問題意識とも つながっています。


 なお、この社会には さまざまな問題があり、さまざまな関係があります。ふんずけたり、ふんずけられたりです。そして、たとえ ひとつのことに とりくむとしても、結局 それは社会全体の問題であったりします。たとえば、「障害児教育のパラダイム転換」を 実現しようとするなら、それは「教育」全体の転換であり、さらには社会全体のパラダイム転換を するしかありません。そうしなければ、対症療法の「改善」に とどまるだけです。


 だからこそ、さまざまな問題に とりくむというのも ありでしょうし、必要でしょう。また、だからこそ ひとつの問題を ていねいに とりくみ、結果として全体の問題を かんがえることになるというプロセスもあるはずです。


 ただ、複数の視点は もっておきたい。そのためにも、わたしは「であう」ことが たいせつだと おもっています。「であう」「はなしあう」「たすけあう」「わかちあう」。


 ひとは ひとを 必要としている。「わかりあう」ことはないかもしれない。むずかしいかもしれない。けれども、「たすけあう」しかないものです。それなら、やっぱり平等であるべきでしょう。それを いまいちど確認して、そのときそのとき、できることを するしかありません。


 まとまらない文章ですが。id:nodadaさんへの おへんじを かねて(おへんじには なっていませんが)。

「権力とはアイデンティティーに関わりなく社会の関係において所与される」というフレーズが つよく印象に のこっています。ほかにも たいせつな論点が たくさん あります。ぜひ よんでください。