hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ことばに おしゃれは いらない。

 むずかしいことを、いかに わかりやすく論じるか。わかりにくいところを ごまかさないままに、きちんと つたえることができるか。これは、表現するものとして、おおきな課題であると おもっています。


 むだに ことばを かざらず、必要で適切な ことばを えらぶ。


 「べきだ」とか、「はずだ」というのは、できるかぎり ひかえる。そして、効果的に つかう。「とても」とか「きわめて」というのも、なるべく おさえる。そして、どうしても強調したいときに つかう。



 わたしも そうかもしれません。むだに ことばを かざってみせる。むだに むずかしい ことばを つかう。つたわりにくく かいてしまう。


 わたしの文章の問題点は、たいせつなところになると、あいまいで文学的な表現を つかって ごまかすというところです。それは、肝心な部分について きちんとした知識と見識を そなえていないからです。だから ごまかしてしまう。抽象的な表現に にげこんでしまう。


 修行が必要なのでしょう。もっともっと、ものごとを かんがえ、世界を しらなくてはなりません。そうでなくては、おちつきませんね。ごまかしてばかり いるから。


 坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「戦後文章論」というエッセイで、つぎのように かいています。


私は文章上だけに存在している現代の文章というものがイヤなんです。なぜなら、現実にもッとイキのよい言葉を使っているのだもの、習いたての文章で物を書いているような現代の文章がバカバカしくて、イヤにならない方がフシギなのですよ。
 そして、「我々の文章が習い覚えたペルシャ語であるために、生きてる筈(はず)の言葉にも習い覚えたペルシャ語の死神の相がのりうつッている」といって、日本語が自分自身のものに なりきっていないことを指摘し、 つぎのように といかけている。

当たり前の言葉で大概(たいがい)のことが言い表せる筈ですよ。日常生活の言葉で文学論がやれないと思いますか。それだけの言葉では間に合わない深遠な何かがあるのですか。

 坂口は、「日本文化私観」で「必要」ということを 強調している。


 僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。
 問題は、汝(なんじ)の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。
 ことばを かざらず、必要なことを かく。ごまかさない。抽象的な ことばに たよらない。抽象的というのは、あいまいで多義的な ことばだ。


 ジョージ・オーウェルも、「政治と英語」で にたような問題を 指摘している(政治と英語 - ウィキペディア)。


 柳父章(やなぎ・あきら)は、『翻訳語成立事情』岩波新書において、「近代」という ことばが いかに多義的に つかわれていたかを 指摘し、つぎのように のべている。


ことばの意味がこれほど多義的であるのは、もともとそのことばの意味というものが、ほとんどないからである。意味が乏しいから流行し、乱用され、そして流行し、乱用されるから多義的になるのである。
(64ページ)


 1910年前後には「近代」という ことばが流行していた。近代という ことばに、さまざまな期待が こめられていた。近代は、かっこよい ことばだったのだ。


 なぜ「ことば」に こだわるのか。ことばに注意する「必要」が あるのか。ペルクゼンは『プラスチック・ワード』藤原書店で、つぎのように のべている。


…ことばは世界を目に見えるようにするだけではない。ことばは世界にはたらきかけるのだ。言語という鏡は現実に反作用をおよぼすのであり、それは部分的には自立した力なのである。無数の拡散した印象がひとつの概念に運びこまれ、そこにひとつの名前が貼りつけられると、この名前がある種の自立性を獲得する。それが限られた視点と眺望しか含んでいないことは忘れられ、物そのものと名前が混同される。こうして名前はできあいの制度をもつ惰性を帯びることとなる。…中略…わたしたちは自分たちに合わせてことばを仕立てるが、その後は、まるでことばという制度を着ているかのようにふるまう。
(36-37ページ)


 ペルクゼンは、「ことばの罪は、ことばがどのように用いられるかにかかっているのである」とし、「わたしたちは自分たちが使う言語を分析しなければならない」と主張している(37ページ)。


 わたしは、わたしの文章が わかりやすいとは おもわない。けれども、わかりやすく かきたいと おもっている。いまから7年まえに「中学生でも わかるように かけ」と いわれた。それを わすれないでいたい。


 よかったら、野沢和弘(のざわ・かずひろ)『わかりやすさの本質』生活人新書という本を よんでみてください。たいせつな本です。