hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

狩猟民族じゃねえ、狩猟採集民じゃい。

  • 本田重道(ほんだ・しげみち)『なぜ、私の歳をきくの? 年齢不問社会の提言』飛鳥新社

 うえの本を よんでいたら、くだらないことが かいてあったので批判します。


 本田は、「年齢」という かんがえかたの起源について想像を めぐらせ、つぎのように かいている。

 原始の狩猟時代とは言え、ヒトは集団生活をしていたし、その最小単位の「家族」はすでにあったはずだ。例えば、妻であり母である彼女は、洞窟の中で狩りから戻る夫を待ち続けていたであろう。

(23ページ)


 このあと「獲物を手にした夫を待ちわびる、洞窟の女」という表現も でてきます。どんだけ受身なんだよっていう。


 「狩猟採集民」っていう用語があります。文化人類学の本の題名にもありますね。

  • 今村薫(いまむら・かおる)『砂漠に生きる女たち―カラハリ狩猟採集民の日常と儀礼どうぶつ社
  • 亀井伸孝(かめい・のぶたか)『森の小さな〈ハンター〉たち―狩猟採集民の子どもの民族誌京都大学学術出版会
  • 菅原和孝(すがわら・かずよし)『身体の人類学―カラハリ狩猟採集民グウィの日常行動』河出書房新社

 ね。よんでないけど。てもとにないけど。

 この論文は、題名から わかるように、今村は「男は狩に、女は採集に」という神話について批判的に検討している。「狩猟民族」という神話は さいしょの部分で あっさりと否定している。

 20世紀に入って、サルからヒトへという人類の進化がようやく事実として定着すると、狩猟活動が人類の進化を押し進めたという「狩猟仮説」がまっさきに提案された。…中略…この仮説において狩猟をおこなう者は当然男性であり、人類の半分を占める女性が何をしていたかについては誰も想像しようともしなかった。
 1960年代に入って、狩猟採集民が実際にどのようにして暮らしているのかという研究が盛んになり、『マン・ザ・ハンター(人間、狩りをする者)』という画期的な論文集が出版された(Lee and Devore 1968)。このなかでリーたちは、狩猟採集民の食生活において、植物性食物が動物性のものよりずっと重要であることを指摘したが、しかし、本全体としては男性がおこなう狩猟活動に焦点があてられていた。また、題名の「マン」が、「人間」というよりも「男性」を意味していることからもわかるように、当時の狩猟採集民の研究は男性中心の視点に偏ったものであった。

 今村は つづけて、「1970年代に盛んになったフェミニズム運動のもとで、『ウーマン・ザ・ギャザラー(女性、採集をする者)』(Dahlberg 1981)が出版され、女性が人類進化に重要な役割を担ったという「採集仮説」が展開された」としている(25ページ)。そして、採集仮説が もたらしたマイナスの点、「性別分業のイメージがかえって強調される結果となった」(26ページ)ことを 指摘し、「男は狩に、女は採集に?」という本題に とりかかっている。


 なんにしても、ものすごく おおざっぱな「分類」が たくさんある。その分類によって いいかげんな固定観念を いだいている。そういうことがある。


 箱の なかみが わからないとき、その箱に つけられた名前から なかみを 想像する。ありがちだ。やってしまいがちだ。というか、さけようもないことだ。まあ、だから、名前の つけかたに注意しよう。あと、ちゃんと しらべよう。きいてみよう。ということかなあ。
 

 分類とは なにか。分類に まつわる 問題とは。とわー!


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